珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

私だけど私じゃないかもしれないような私についての覚書|小心者の私は死んだ

ところで君(わたし)誰

「最近どう?」くらいの気楽さで「私は誰?」という問いについて考えている。今日の私と昨日の私は然程変わらないし、昨日の私と一昨日の私だって大した違いは無いだろうに、今日の私と1年前の私はまるで別人のように乖離している(気がする)のは不思議なことだ。今日の私が1年前の私を指差して誰だお前とゲラゲラ笑っているし、1年前の私が今日の私を指差して誰だお前とびっくり仰天してる。それくらい変わったのだ。成長ではない。恐らく。これを成長と名付けるには時期尚早だと思う。ていうかあの……いやホントに、最近の私、誰?

面倒な客をちぎっては投げちぎっては投げ

私という人間はもっとなんというか、小心者で、オドオドしていて、言葉がすぐつっかえて出てこなくなって、すぐ落ち込んで、常に人の目を気にしていて、アレを見ては怯えコレを見ては怯えしているような、どうしようもない小心者(2回目)ではなかっただろうか。それがこう、最近の自分と来たら、気が強くて、クソ客とメンチ切ったり、便所に籠ってゲロゲロしたあと爆睡している泥酔客をドアこじ開けて叩き起したり、訳のわからん文句を付けてくる客に「はあ、お客様ご自身はXXと思われたのですね」「なるほど、YYでございますね」というオウム返し戦法で反撃したり、ある女性従業員に執拗に絡み続けるセクハラ客に「恐れ入りますが彼女ではなく私の目を見て頂いてもよろしゅうございますか!!!!!!!」とマジギレしたり、なんだか……なんだか頼もしい。自分なのに。自分が頼もしいや。働き始めた当初はこの動物園でやっていく自信がまるで無くて、何かある度に3つも4つも年下の先輩に泣きついていた。今ではもうそんなことを言っていられないのである。Q.日頃からクソ客クソ客言ってるけど実際のところクソ客ってそんなにいないでしょ?A.います。四半世紀前風に言えばお客様は神様なのかもしれないが、我々は法律様だ。神と言えども我々には従ってもらおう。店の秩序を守るために。神vs法の仁義なき戦いである。

(※普通のお客様やちょっとムカッとする程度の客に対してはちゃんと丁寧に接してます。ご安心ください。深夜という時間帯と立地の関係で泥酔客とかアレなお客様の割合が多すぎるだけです。)

中身まで私ですか~

こんな具合で最近の私がとても頼もしいものだから、もしかしたら今この体に入っている精神は私のものではなく別の人なのでは?とオカルティックな不安に駆られたりするのである。まだ見ぬストレスに怯え、ストレスに怯え、更にストレスに怯えていたような、毎日戦々恐々と生きていた私はどこへ行ってしまったのだろう。バカンスかな?私が凶暴化することで、1%のクソ客から99%の善良なお客様の平穏を守れるなら安いものだけれど、仕事以外の日常生活でも些か感情面の凶暴が過ぎるような気がして、バイオレンスな不安に駆られたりするのである。例えばそう、正面から歩きスマホの青年が近づいてくる、相手は気づかない、ぶつかりそうになった、腹が立った、そういう場面で相手をいきなり殴りつけたりしないかな?とか……

ぼんやり

先程自分のことを「変わった」と表現したが、果たしてそうであろうか。もしかしたら、元々の私がこうで、ただ「戻った」だけなのかもしれない。私の知らない私に変わることと、私の知らない私に戻ることの違いは一体何だろう。単純に考えれば皮を1枚着るか、1枚脱ぐかということなのだけれど、被った皮は剥がれやすいし、剥き出しの皮膚は傷つきやすいし、結局どちらがいいのかな。進んでも私だし、戻っても私だし、私ってどこまでも私なんだなあ。私に何百枚皮を被せても、私から何百枚皮を剥がしても、私は私なのだ。昨日には虫も殺せなかった私が、道端の草一つも踏めなかった私が、今日は平気な顔で鶏の首をキュッと締めて、公園の花壇を踏み荒らしたとしても、私は私なのだ。オエ。

あにまる

人は変われると言う人もいれば、人はそうそう変わるもんじゃないと言う人もいる。変わっても私だし、変わらなくても私だし、まあどっちでもいいんじゃないか。どうせ私なのだから、今夜も安心して凶暴化しよう。いや凶暴化せずに済むならそれに越したことはないのだけれど。動物園で働く人間まで獣になったら、そこは最早動物園ではなくジャングルである。暴れる獣に見る獣。同じ獣なら暴れにゃ損損。

けつろん

動物園(仮)で働くと、頼もしくなれるぞ!

 

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