万年ダイエッターのままならぬ思惑についての覚書|決まりきった暮らしへの憧れ
ダイエットについて考えない日はない
ここ最近、健康に悪い記事ばかり書いている気がする。なので健康に良い記事を書こう。健康診断の正式な通知も来た。顔の肉は相変わらずだし脚も太い。さてどうしようか。懲りずにダイエットについて考えたとて毎度毎度堂々巡りで答えは出ない……いや考える前から分かりきっている一つの答えにしかありつけない。結局、食いさえしなけりゃいいのだから。書き上げてから気づいてカーソルをここまで戻したのだが、この記事は恐らく、以下の記事の延長である。
おいしいのかなあ
最近購読し始めたブログに、バターコーヒーに関する記事があった。以前勤めていたスーパーで突然外国産高級バターがバカ売れし始め、店長がその確保に躍起になっていたのは、おそらくそのバターコーヒーとやらのせいだったのだろう。そのバターコーヒーを流行らせるきっかけとなった(であろう)本、実は私も持っている。流行した当時買ったものではなく、つい2ヶ月ほど前、ブックオフで安くなっていたので買ったものである。
この本は端的に言って、「趣味や娯楽で健康をやれる富裕層向け」であり、私のような貧乏フリーターには全く縁のないものだ。もっと分かりやすく言えば、「こんなん実践してたら食費がいくらあっても足りない」というヤツ。恐らく私の1ヶ月分の収入丸々食費につぎ込んでやっと実践できるかできないかというくらいの、ハイソサエティ向けの食事テク本である。その看板メニューが、バターコーヒーだ。ガーだかギーだか知らないがそういう高い動物性油脂をコーヒーにぶち込んで飲む。少し効果は劣るが、MRIだかMITだか知らないがそういう高い植物性油脂でもいい。そういうシロモノだったかと思う。とにかく、お財布一般人向けの本じゃない。
コーヒーはブラック派
私は専らコーヒーはブラックで飲む。マリームやクリープのような粉末状のクリーミングパウダーであれば、そこそこの量を入れても飲める。しかしポーション状の、コーヒーフレッシュなどと呼ばれる液体のミルクは駄目だ。あれを入れると胃もたれして飲めなくなる。砂糖やシロップはもっと駄目だ。なんかもう……とにかく胃と胸の辺りがえらいことになる。そんなわけで、例え実践継続可能な金銭的余裕があったとて、バターコーヒーは続けられないかもしれない。続けられないと言い切れないのは、レンジでチンした安い食パンに安いマーガリンをベタベタ塗ったものがめちゃくちゃ好物だからである。それが好きならイケるだろうか。
このまま長生きしてしまってもそれはそれで困る
サラッと書いて流してしまったが、趣味で健康ができる人間がいる傍ら、最低限の健康さえままならない人間がいるのは残酷なことだ。この場合の「健康さえままならない」に重篤な病気は除かせてもらう。金が無くてカップ麺ばっか食ってるとか、金が無くて菓子パンや粗悪な油の揚げ物ばかり食ってるとか、そもそも金が無くて食ってないとかそういう理由で、一般的に健康といわれる位置から外れている人たちのことを指す。節約と健康を両立するのは難しい。健康は金持ちの娯楽。女性向け週刊誌の表紙のインパクトはすごい。アレ食って健康、コレ食って長寿、そんなことばかり書いてある。食べて生きて食べて生きて食べて生きて――世の人たちは、そんなに食べ(生き)たいのかな。
理想のライフスタイルです
ええと、ダイエットの話だった。1日のうちどこでもいいけれど1食をコーヒーのみにして、1食でついつい2枚とか貪ってしまう食パンをきっちり1枚にする。それを、せめて健康診断の日まで。コーヒーも食パンも私の大好物だし、時々飽きが来るかもしれないが嫌になることはないだろう。DHCのマルチビタミンを買って、それで肉とか魚とか豆とか野菜とか果物とかの代わりに、私の体をなんとかしてくれませんかね。通勤が徒歩なので、往復でだいたい1時間半は歩く。バイト中はバタバタ走り回ることが多いので、それもそこそこの運動になる。そうやってとにかく余計なものを入れず、毎日黙々と、同じように繰り返す。毎日毎日。繰り返し繰り返し。それで健康診断までに3kg痩せたいなあ。
私の心を乱さないでほしいんだ
先日久々にポテチのヤケ食いをしたわけだけれど、私はヤケ食いをしてすっきりするタイプではない。むしろ罪悪感で死にそうになるタイプだ。美味しいもの。美味しそうなもの。私の視界からきっぱり全部消えてくれたらいいのにと思う。コーヒーと食パン以外、何もかも目に映らなければいいのに。そこまでならなくとも自分が目に入れなければいいだけの話で、視界に入ったとて無視すればいいだけの話なのだが、どうして人間ってこうなのかしら。毎日決められた簡素なメニューを、決められた時に、決められただけきっちり摂る生活は落ち着く。貰い物のクッキーとか、ついつい気になって買ってしまったスナックとか、誘われてうっかり了承した外食とか、そういうのを親の敵のごとく嫌っている。親がクッキーをくれたり、親がスナックをおすすめしてきたり、親に外食を誘われたりすることもあるのだけれど、それでもそれらは親の敵なのだ。毛色は違うがブログを始めたばかりの頃にも食物への恨み節を色々と書いた。
この記事を書いていた4月末は修行僧の如き食生活で満足していたらしい。すごいな私。今はといえば、豆腐と味噌汁と白米に用いる食器類を洗うのが嫌で食パンをモサモサモサモサ食べたい放題食べている。そりゃ太るわ。
それでも食パンとコーヒーが私の夢を叶えてくれると
健康診断とかダイエットとかなんとかそれっぽい言い訳をつけているけれど、ただ、美味しいものや美味しそうなものに心を動かされたくないだけで、目の前に美味しそうなケーキがあっても、プリンがあっても、蒙古タンメンがあっても、暴君ハバネロがあっても、「はあそうですか、私はこれから家に帰って食パンを食べますが」という人間になりたいのである。それも結局は食に執着しなくなったのではなく、食に執着したくないがために食パンに執着するという矛盾めいた自己満足行為に過ぎない。無趣味なフリーターというだけでもう日常の楽しみが「食うか寝るか」くらいに限られてしまうのに、その上で更に「食う楽しみ」を自分から消し去ってしまいたいと考えるのは、マゾだろうか。食べ物に限らず、モノに対しても、形のない娯楽に対してでもそうだけど、とにかくライフスタイルからイレギュラーな事象を排除していきたいのだ。私とて以前は画一的で代わり映えのしない生活はどんなにつまらないことかと嘆いていたが、最近ではそれが心地よいことに気づいた。歳を取ったということだろうか。
あーもう助けてしょくぱんまん様。