珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

1万円と”救い”についての覚書|これが労働に(頭と)精神をやられた女の末路

金の話をするとしよう

自分が楽しくなる記事を書こう。「毎月1万円貰えたら何をするか」。休みを1日増やし、貰った1万円を減った分の給料に充てる。その日は1日中寝て過ごす。おしまい。

 

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1万円について考える回です

突然だがこの増えた1万円で人は救われるのかについて、ぼんやりと考えてみようと思う。今日は楽しい記事を書くと決めたのだから。あくまで「救われるのか否か」に焦点を当て、「どのくらい救われるのか」という程度の問題は考えないことにしよう。1万円は人を救えるのかと言い換えても良い。「人は救われるのか」と書くとそりゃ人によっては救われるだろうよという気がするのだが、「私は救われるのか」と書くと「えっ……どうなの私?」という気分になる。人≠私。私は人ではなかった?私は1万円を貰えたらめちゃくちゃ嬉しいが、恐らくその1万円は瞬く間に銀行口座に吸い込まれて、ベンチウォーマーならぬ口座ウォーマーとして生涯を終えることになるのだろう。救われるには救われるのだろうが、何だろう。何かが違う。

道端にはよく赤んぼの靴が片方だけ落ちている

健やかな人生のためには、手にした1万円の先に何かがなければならない。本来は1万円そのものに喜ぶのではなく、1万円の先に連なっているコトやモノに対して喜ばなければならない。1万円という赤んぼの小さな手のひらに、服や、本や、焼き肉や、寿司や、温泉や、日帰り旅行をにぎにぎさせて、いい子だからちゃんとにぎにぎしておくのよと釘を差して注意深く見守り続けなければならぬのだ。ところでベビーカーに乗っている赤んぼが手に握っていたものを下に落とした時の表情は実に趣がある。この先の人生、そういうことが山程待っているのだよ。お前が今取り落としたものは、これから成長して大人になるにつれて幾度となく取り落としていくモノ共の1つに過ぎないのだよ。

マネーイズパワーシステム

1万円を手にした時の救いと、手にした1万円と引き換えに何かを得た時の救い。隙を生じぬ二段構えの救い。基本的に後者の方が救いの度合いが大きいのだろうが、人と場合によっては前者の方が大きい場合もある。私の場合は圧倒的に前者の方が大きく、後者は救われるどころかむしろ神経をすり減らす原因にしかならない。はーもう1万円だいすき。1万円で得られるお洒落な服より1万円が好きだし、1万円で食べられる美味しいお肉よりも1万円が好き。1万円すこすこのすこ。どこぞの赤い悪魔ではないが、私は恐らくお金そのものが好きなのだろうな。貧乏人の癖に没落貴族やこじらせ成金のような思想をしている。身の丈に合わぬ思想は身を滅ぼすぞ。

力が欲しいか

というわけで(?)、私が降って沸いた1万円を手にしたとき、主導権は既に私の元を離れ、私は1万円の下僕となって、1万円の思うがままに喜んだり悲しんだりするのである。1万円>私。1万円は救い”主”ではなく、主人と奴隷で言うところの”主”。「1万円と救済」というテーマに立ち返ればこれはもう、人の側に救われようとする意思があるかどうかよりも、1万円の側に人を救う意思があるかどうかの問題ではなかろうか。我々が1万円を握り締めて「さあこの金で今夜はキレーなネーチャンと遊ぶぞ」と固く誓っても、1万円の側に我々を救う意思がなければ大はずれを引かされる羽目になるのではないか。サーロインを食べに行ったのにレバーとホルモンばかり延々と食わされるような羽目に。メシアによる救済が我々の手の届かぬところから施されるように、人智を超えたところに1万円の意志があるのではなかろうか。そうに違いない。では1万円に問おう。力が欲しいか。あの限界フリーターを救うための力が欲しいか。

いや別に。

 

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