悪魔だ!殴れ!
もしもあなたが通りすがりの悪魔から、「お前のやっていることはお前の内から生ずるものか、それともお前の外から生ずるものか」と尋ねられたら、その悪魔を問答無用で殴って良い。例え悪魔とはいえ聞いて良いことと悪いことの分別くらいはつけなければならない。もしもあなたが買い物帰りの神様から、「お前のやっていることはお前の内において善いものか、それともお前の外において善いものか」と尋ねられたら、その神様を問答無用で殴って良い。例え神様とは言え聞いて良いことと悪いことの分別くらいはつけなければならない。もしもあなたが散歩中の人間から、「お前のやっていることはやりたいことなのか、それともやるべきことなのか」と尋ねられたら、その人間を……殴ってはならない。何故なら、警察に捕まるからである。この世で悪魔や神様を殴り飛ばしても別に逮捕されないが、人間を殴り飛ばしたら逮捕される。コワイ!ならばこの世で殴れるものは殴っておいた方がいい。Satan Punching Center、略してSPC。
やりたいこと やったもん勝ち
自分の1日の性質を、最近よく考える。厳密に言えば、自分がその日その日にやっている行為の性質を。そして自分の1日の意味も併せて考える。正確に言えば、自分がその日その日にやっている行為の意味を。今やっている労働は、少なくとも自分のやりたいことではない。生活のために仕方なくやるべきことである。一方余暇時間は何をしているかというと……特に何もしていない。つまり現状では労働が起きている時間の大半を占めているわけだから、私の1日はただただ後ろ向きなやるべきことの消化で終わり、ひいては私の人生もそう。エーッヤダーッ。自分にやれそうなこととか、やりたい。自分がやりたいこととか、やりたい。やりたいことはやるべきことの後にやるもんだと誰かは言うが、やりたいことはやるべきことと並行してやるべきである。並行して”やるべき”であるがゆえに、やりたいことは「やりたいこととやるべきことを並行してやるべき」と並行してやるべきである。こうやっていくと最終的にやりたいことがやるべきことを食い尽くしてしまうのではなかろうか。やっぱり人はやりたいことをやるべきだな。”やるべき”、なのだな。
善×悪
「可く」生きたいのならば、自分がやれそうなことをやらねばならない。「快く」生きたいのならば、自分がやりたいことをやらねばならない。「良く」生きたいのならば、自分が前向きにやるべきことをやらねばならない。「善く」生きたいのならば、自分がやりたくないことをやらねばならない。「よく」生きるというのは実に大変なことだ。人は多種多様の(少なくとも本人にとっては)「よい」ことを組み合わせて生きている。では「わるく」生きるにはどうすればよいのか。答えは単純、上のように「よく」生きようとしている他人の邪魔をしてやればいい。人のやれそうなことを盗み、人のやりたいことを掠め取り、人の前向きにやるべきことを奪い、 人のやりたくないことを自らすすんでやる ……おおっと?どうやら「善く」生きたい人の邪魔をするのは難しいようである。「善く」生きたい人の邪魔をしようと思えば、自らも善人にならねばならぬから。こういうただならぬ関係だから善悪などとセットで呼ばれるのだな。この場合は善(腹黒系優男)×悪(オラオラ系ヤンキー)かな……
どこへ行っても義務的な概念が追いかけてくる
やりたいことは、こちらが何も手を加えなくともどこからともなく滾滾と湧いてくるものだと思っていた。店が客に商品を買わせようとアレコレ企てるのと同じで、世の中にあるたくさんのモノ・コトが我々に「やりたい」という欲を催させるためにアレコレ企てているものだと。しかし世の中のモノ・コトたちは案外ドライで、人間に無関心である。人間に関心があるのは人間だけだ。モノ・コトの皮を被った人間だ。私はただただ純粋なやりたいことが欲しくて仕方がないのに、やりたいことを探す行為は「やるべきこと」に該当するのだから笑うしかない。ふえぇやりたいことを探すの面倒くさいよぉ。やりたいこと、やりたいよぉ。