得たがり共のトラジェディーについての覚書|「読書行為そのもの」について日頃から考えすぎるとうまく読書出来なくなるのでお気をつけください
>突然の財宝<
もしも、手ぶらで家を出たあなたの家族が、抱えきれないほどの金銀財宝を携えて数時間後に帰ってきたら、あなたは喜ぶとか腰を抜かす以前に、ひどく訝しがるだろう。宝石店や金持ちの家で強盗を働いてきたか、或いは鬼退治にでも行ってきたか、将又ひとつなぎの大秘宝 を探し当てたか。まあ実際にはその金銀財宝は金銀財宝ではなく、ただ金銀財宝らしく見えるものに過ぎないのであるが、持ち帰ってきた当人が金銀財宝と言い張るのなら、金銀財宝なのだろう。人が、限りなく少ない代償から、限りなく大きい利益を、ある日突然、どこからともなく、極めて容易に持ち帰ってくることなど、そうそうあることではない。仮にあったとしても、往々にして人々の疑念や不信を呼び起こすものだ。物質的なものでさえそうなのだから、非物質的なものは尚更である。
眼鏡の度は強すぎても弱すぎてもいけない
そんなわけで、四六時中「良きものを得た」と言っている人は個人的に信用ならない。勿論全ての良きものに代償が必要とは限らないし、棚から良きものが出てくる場合もあろうが、そう滅多に起こることでもあるまい。何か良いことをしたからといって、必ずしもそこから良きものを得る必要はないし、そもそもそんな良きものがホイホイ手に入ったら苦労しないわけで、良きものを得すぎる――それが真に良きものであるかは別として――ことは却って当人を陳腐に見せる。また、良きものらしく見えるものが視界に映ったからといって、その意味や価値や性質をろくに考えもせず、条件反射で「良きものを得た」と言っているのも同様に滑稽である。良きものを得られなかったことが敗北なのではなく、それらしく見えるものを良きものだと信じ込むことこそが敗北なのである。金を拾えなかった人よりも、拾った鉄を金だと言い張る人の方が遥かに惨めではないか。
答えは得……てない
得たがりというのもある意味考えものだ。「得た」と言いたがりなのはもっと考えものだ。もしそれが本当に得たものであるならば、それを懐から取り出して、これこれこうこうと仔細説明しながら人々に披露することが出来るはずである。人々からの質問にも難なく答えることが出来るはずである。それが曲がるものなら曲げてみせたり、それが捻じれるものなら捻じってみせたり、それが千切れるものなら千切ってみせたり、そういうことが容易く出来るはずである。それについて説明や解答が出来ないばかりか、懐から取り出すことさえも出来ないものに対し、何を以て「得た」と言っているのだろうか。そもそも人が真に良きものを得たのなら、その人自身が良きものに変化するはずなので、いちいち「良きものを得た」と言ってまわる必要は無いのである。
一緒に走ろうって言ったじゃん
バイト中にぼんやり突っ立って「読書とは何か」を考えていた結果がこれである。私個人の「読み、得る」試みは進んでいるのかいないのかさっぱり分からないような状態だが、自分なりに「読み、得る」に努めた結果、「読み、得る」ってぶっちゃけ無理ゲーでは?ということに(今更)気づき始めた。世の中そう簡単に得られるもんじゃないということを得た。しかしまあ、1冊の本を読んで10得たと言いまわっている人は好きにさせておくとして、それでも1冊の本を読んで1得る必要はないわけで、100冊の本を読んでやっと1つを「真に」得るくらいで十分だと思う。何故私がこんなことを言うのかって、だってこうでも言って引き止めなくちゃ、皆さんどんどん先に進んじゃうでしょう。沢山の良い本を読んで、沢山の「真なる」良きものを得て、私のような馬鹿を置いて、どんどん遠くへ行ってしまうでしょう。1冊の本を読んで1得るような天才がそこらじゅうに居たら困るわけですよ。私はまだ何も得ていないから。