珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

人と病の夢物語についての覚書|健康上の理由により人生続けさせていただきます

何かそういう類のおとぎ話だと思ってほしい 

病の国の話をしよう。ここにはおそらくありとあらゆる性質の病があって、というよりもここにある全てが 病そのもの・・・・・ であって、ここにあって病でないものはなく、ここにあって病と呼べないものはなく、人を死へと導くものを病と呼ぶならば、人を生へと引き戻すものもここではまた病と呼ぶのである。ここに棲む人々は絶えず病に苦しんでいる。というのも、彼らはいつも朝起きると共に病の光をいっぱいに浴び、病を洗い、病を飲み、病を食べ、病を磨き、下ろしたての病を身に纏って、足取り重く今日の病へと向かわなければならないのだから。ときに彼らは――己を人間だと思っている 病そのもの・・・・・ なのか、はたまた己を 病そのもの・・・・・ だと思っている人間なのか――まあそんなことはどうでもいいのだが、彼ら自身の構成要素のうちに 病そのもの・・・・・ を含んでいるという点において、明らかに病なのである。

何かそういう類の戯れ言だと思ってほしい

これが病の国の話ではなく、現実世界の話となると、こう。医学的な確証は今のところ全く無いのだが、自分は恐らく、まあ世に言うところの病を何かしら抱えているのだろうというやけにはっきりとした感覚――「病めいたもの」――があって、それに名前を宛てるならばこれこれの類であろうなという予感さえあり、まあそれも医者を訪ねれば一発で分かることなのだが、敢えてそれをせず「病めいたもの」を「病めいたもの」のままにしておく、すると「病めいたもの」は自分の中に感覚として残り続けるわけであるが、そのようにして己の感覚の中に「病めいたもの」が存在しかつそれが取り除かれない限りにおいて、「病めいたもの」は自身にとってまさに不治の病そのものであり、「病めいたもの」が自身の構成要素の一つとなっていく、という点において、それはもう明らかに病なのである。なんのこっちゃ。つまり、それが実際に本物であれ錯覚であれ、「病気かもしれないなあ」という感覚もまた一種の病であり、またそれを自分の中に置きっ放している限り外部からの治療を一切受け付けないある種の不治の病であるので、早く病院行きなさいよということだ。「病院に行けばだいたい治る不治の病」というと矛盾も甚だしいが、しかしそういうものなのだから仕方がない。人間、病に蝕まれるのはやむなしといったところだが、「病めいたもの」に蝕まれるのは全くやむなしではない。止むべしである。

鎮まれ!我が肉体!

 精神が健康であっても肉体が不健康であれば人間呆気なく死んでしまうものだが、対して肉体が健康であって精神が不健康な場合、人間は総じて生き延びてしまうものである。記事の副題にしている「健康上の理由により人生続けさせていただきます」というやつだ。だって肉体が健康なんだもの。仕方ないじゃない。精神に比して、明らかに肉体の健康を持て余している。ぐえーっ。私の体は一体いつまで動くんだ?何故人は肉体が動いていることを生の指標にしているんだ?精神が人間の本体ならば、精神の死は本体の死であって、それこそ肉体の死と同等、いやそれ以上に扱ってほしいものだ。ここで一応言っておくと、精神の死が肉体の死と唯一異なる点があって、それは復活の可能性を孕んでいるというところなのだが、復活の可能性を孕んでいる以上、再び死ぬ可能性も孕んでいるわけで、再び死ぬ可能性を孕んでいる以上、再々復活の可能性も孕んでいるわけで、再々復活の可能性を孕んでいる以上、再々死ぬ可能性……

いやはやまったく

肉体はどこまでも枷であることよなあ。

 

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