珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

生命ポイントを上手に使い切る方法についての覚書|今月で失効する生命ポイントのご確認をお忘れなく

生きることは健康に悪い

人間の心に次から次へと余計な欲求が生じるのは、人間の寿命をほどほどにしておくのに大いに役立っていると思う。もしも人間がこれっぽっちも不健康な欲求を抱かなかったとしたら、旧約聖書の登場人物の如く、息を吸うように400年生きたかもしれない。特に、我々現代人がもよおす欲求はだいたい健康に悪いように出来ている。それは良いことだと思う。我々が苦痛のうちにあって寿命をすり減らしていくのと同じように、我々は享楽のうちに少しずつ少しずつ寿命を減らしていくことが出来る。昨日の記事で、私はヴォルテール先生のパリピ的幸福概念に真っ向から喧嘩を売ったわけであるが、なるほど、上手いこと寿命を減らす手段としてこれほど合理的なものもないな。不要不急の最高級ステーキを食べながら絶望する者はそうそういるまい。人間は無数の楽しい楽しい選択肢の中から、自分のお好みで、寿命を減らす手段を選ぶことが出来る。コーラをグビグビ!カップ麺をハフハフ!アイスクリームをペロッ!モンエナをプシュッ!タバコをプハー!……こんな具合で。

 

人は他人の寿命を効率よく利用する方法をいつも考えているね

世の中に存在する大抵のもの、少なくとも我々が触れられる大抵のものはお金に換算出来るし、更にお金は時間に換算出来るし、更に更に時間は生命に換算出来る。換算せねばならぬと言ったほうが正しいだろうか。生き物にとっては、いやありとあらゆる有限なものにとっては、時間とはすなわち寿命、余命に他ならない。我々が「時間のここからここまで」と言っているとき、同時に「生命のここからここまで」と言っているのである。勿論それはいつも純粋な長さというわけではなくて、大抵が質量を伴った長さである。円柱や角柱みたいな具合で。仮に、のんびり歩いて過ごした1時間の生命と、必死に走って過ごした10分の生命がイコールであるとしよう。そこで我々現代人は、質量をまったく変えずに1時間必死に走って過ごせるような、すなわちかつての10分ぶんの生命で1時間を悠々走りきれるような、そんな人間の開発に日々勤しんでいるわけだね。一方、時間を何にも換算せず、「時間そのもの」として保持出来るのは神様とか、それに準ずる不老不死の存在くらいのものであろう。

 

ぺヤング超超超大盛りGIGAMAXは平気で300生命ポイントくらい要求してきそう

1時間の生命を1生命ポイントとしよう。「なんか気づいたら2時間くらいぼーっとしてた」と、「なんか気づいたら2生命ポイントを消費してた」はほぼ同義である。これはまさに先ほどの私なのだが、なんというか、2時間はなんてことないが2生命ポイントはヤバイ。例えば、「今無駄に消費した2生命ポイントがあったら、1冊の本と引き換えることが出来たのに」とか言われたら、なんだかとんでもなく損をした気分になる。本と交換可能なポイントが、虚空に吸い込まれて消えた。これをポイントの「消費」ではなく「失効」とすれば、もっとダメージはデカくなるだろうね。貴重な24生命ポイントが、何にも使われることなく失効した。オエッ吐きそう。私は今日1日、今週1週間、今月1ヶ月、今年1年、生命ポイントを何に使っただろうとか、そういうことを考えると血の気も裸足で逃げる。50楽天ポイントが失効しただけでも軽く凹むのに、そんなものよりずっと大事な24生命ポイントが、168生命ポイントが、720生命ポイントが、8760生命ポイントが……消えた!まるっと!どこかへ!ヴォエ!

 

ああ~!生命ポイントの音ォ~!

とはいえ、休日にだらだらと生命ポイントを消費するのも時にはオツなものだよ。私がいちいち手続きなんかしなくても、生命ポイントは律儀に支払われる。チャリン。チャリン。これぞ幸福の音、幸福に寿命が減っていく音。チャリン。チャリン。あったかいお布団に潜り込んで、スマホや天井をぼーっと眺めながら、ずっとその音を聴いて過ごしたい。チャリン。チャリン。あの、白黒さん。私は一体いつまで生命ポイントを薄汚いドブ川の中に放り込めばよいのでしょう。チャリン。チャリン。いつまでって、そりゃ私が死ぬまでさね。チャリン。チャリン。

 

 

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