珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

学問をすゝめられた覚書|すゝめには勝てなかったよ……

学問をすゝめられたフリーターの所感

福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んでついうっかり学問したくなるような単純な人間なので、あの手の名著に目を通してもついうっかり学問したくならないタイプの人々のことは、ちと複雑な生き物に見える。何も「学問せよ」と説かれて学問しようという気が起こらないことを悪と言っているわけではない。私は一般論的に「学問せよ」と言われると問答無用で「ハイワカリマシタ!!」と応じてしまうタイプの人間だが、例えば具体的に「飛行機のエンジンを学問せよ」とか「シャクトリムシの生態を学問せよ」とか言われたら、「検討します」と答えるだろう。あっでもシャクトリムシの生態はちょっとやりたいかも。ただし、ついうっかり学問したくなるのと実際に学問に取り掛かるのはまったく別物であるからして、9割方学問せずに終わる。真っ黒い箱の中で誰にも看取られることなくロウソクが燃え尽きるのと同じで、ついうっかり学問してえなあというあの尊い炎は、私の中に存在する何ひとつさえも照らさずに、ひっそりとその生涯を終える。

 

義務という極めて有用にして自然状態であればまこと余計なスパイス

現代において、学問に対する意志と行動の関係は一筋縄ではいかない。果たしてそこにおのおのの意志があるのか甚だ怪しいし、おのおのの行動が本当におのおのの行動であるのかさえ不明である。この意志と行動の関係を、さしあたり「学問したくて学問する」「学問したくて学問しない」「学問したくなくて学問する」「学問したくなくて学問しない」の4パターンに分類しておこう。実際はもっと複雑なのだろうけど。例えば外からの強制を受けて学問する場合は「学問する」よりむしろ「学問せざるをえない」と言う方が適切だろうし、また、泳ぎ続けないと死ぬ生き物のごとく自発的に学問し続けないと頭がおかしくなるような殊勝な人にとっても「学問する」は「学問せざるをえない」に当たるのだろうが、前者とはまた違った趣がある。この場ではこれらの亜種については全て切り捨てることにしよう。段落がまた長くなってしまったな。

 

「やりたいことができない」ストレスは人間の敵ですので

これらのうち3つは説明不要だろう。「学問したくて学問する」「学問したくなくて学問する」「学問したくなくて学問しない」の3つだ。私が触れるべきは残りの1つ、「学問したくて学問しない」について。はて、これは一体どういうことか。学問したいならすればいじゃない。学問したいという意欲があるにも関わらず、なぜ学問をやらないのか。意志と行動の乖離で言えば2つ目の「学問したくなくて学問する」にも当てはまるのだが、こちらはその裏に強制力が透けて見えるのが大きな違いである。いくら学問したくない人間でも、最低限の学問はやらなければ生きていけないような世の中になっている。一方で「学問したくて学問しない」は……ええ、そう、疲れているんですね。色々。学問したいという意志はあるものの、頭と身体と心が追いついていないというか、その「追いついていない」こと自体がまた同様の疲労感をもたらすというか……

 

おつかれちゃん

机に向かってペンを握り学問したいのは山々だが、本当に疲れているので、私に出来ることといえば、せいぜい少し早起きしてベッドの上でだらしない姿勢をとりながら岩波文庫を読みあさることくらいである。己の行動を振り返っているうちにまた疲れてきたのでこの話はこのくらいで終いにします。

 

理想の学問ではなく『空想の学問』について語りまーす

学問は永遠の美しい娯楽であってほしかった。いきなり何言ってんだ?義務や虚栄やその他醜いものから切り離された、孤高の存在として。とはいえ、紀元前の時代から既に、詭弁家連中が中身の薄い高説を垂れてその対価で懐を潤していたのだから、今更も今更な嘆きである。つまり、「下心なき学問」という「故障しない家電」とか「喉が乾かない乾パン」とか「舌がヒリヒリしない唐辛子」みたいなものを私は考えているということだ。純粋に単純に本当に駆け引きなくいい意味での「やりたいやつだけやればいい」を学問が体現出来る日は一生来ないのだろうな。かといって、「やりたいやつだけやればいい」を通した結果、「政治ってなんですか?」「法律ってなんですか?」「100円ってなんですか?それはどうすれば手に入るのですか?私は一体何をすればあそこに並んでいる食べ物を得ることができるのですか?」という人間が世に溢れかえっても困るのだ。ウーン、どうしよう。考えても詮無きことだな。やめやめ。

 

神格化された学問は決して進歩しないだろう

私のように学のない者が、ガラスケースの中の学問を見て「永遠に美しくあってほしい」と一方的に願うことは、テレビの中の好きな芸能人を見て「永遠に結婚しないでほしい」と一方的に願うことくらい身勝手だ。その芸能人の幸せを願うなら、彼ないし彼女が結婚して幸せを得ることを喜んで肯定するべきだし、学問の幸せを願うなら、学問が美しくあらなかった故に目覚しい発展を遂げてきたことを進んで肯定するべきだ。にしたって、綺麗な世界には綺麗な学問だけがあるのかなあ。読んで字のごとく人間の手垢が付いていない、汚れた手でいくらベタベタ触ったって綺麗なままの学問が。その世界に行くには私は悪行を積みすぎたな。入学願書を送ったところで送り返されるのが関の山。3億円当たったらバイト辞めて放送大学にでも通おうかな。

 

 

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