珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

春の歌ではなく夏の歌ではなく冬の歌でもないものについての覚書|秋は人を詩人にするのでこれは秋の詩

秋とは

春ではなく、夏でもなく、冬でもないもの

 

かしこい

否定形でなにかを定義することはまこと簡単であることよなあ。自分とは一体なんですかと訊かれたら、他人ではないものと答えればよいのだから。自分とは一体なにか。こんなむつかしい質問にも、これほど容易に対応できてしまう。Xとは、Xでないものでないものである。このように考えるとき、Xは、Xでないものに依存している。Xでないものが存在しなければ、Xもまた存在できない。自分でないものが存在しなければ、自分もまた存在できないのだ。ふふん。頭に浮かんだそれらしいことを言っているだけで、なんだか自分が賢いものに思えてきたな。エッ、賢いの定義ですか?賢くないものでないものです。賢くないものの定義ですか?賢くないものでないものでないものです。

 

今週のお題が「秋の歌」ってことは、春の歌でもなく、夏の歌でもなく、冬の歌でもないものを挙げればいいってことになるのかな?でもそうすると、一見分類不明な歌もすべて秋の歌になってしまって、不平等になってしまうかな?このやり方によれば、秋の歌は、たくさんのものを獲得できるのだな。春の歌と、夏の歌と、冬の歌を排除して、残ったものをすべて秋の歌のものにできる。ウーン、これは反則ですね。レギュレーション違反です。しかしながらこれに倣えば、自分というものを定義するときに、まずは他人を排除しておく方法を取ることで、残ったものをすべて自分のものにできる。他人ではないものがすべて自分になる。さしあたり、そうやって自分の取り分を大きくしておきましょうか。それくらい卑怯な手段を使っておかないと、自分は一生かかっても他人に勝てそうにありませんから。なに言ってんだ?

 

ここらで真面目に秋の歌について考えよう

特に思いつかないのでやめます

 

人がなにかを組分けするとき、そこには必ず目に見えない余りが生じるようになってるんだから

自分と他人を除いたとき、この世に残るものって一体なんなんですかね。それは、卑怯な手段を使ってでも自分の中に取り込んでおかなければならないほど、価値のあるものなんでしょうか。私はそれを肉眼で確認したことがないので分かりませんが。しかし、この世に残るものたち自身に直接そのことを尋ねたら、彼らはきっと憤慨するでしょう。「やいやい、まるで俺たちに価値がないような言い方をしやがって。この世においては、自分と他人にしか人権がないのか。それ以外のものには人権がないのか。」って。否定形で定義することはなにかと便利ですが、そのぶん危険も伴うものです。「秋の歌とは」と言われて、「春の歌でも夏の歌でも冬の歌でもないもの」と返すとき、そこで不条理にも秋の歌に組み込まれてしまったものたちから、不満の声が上がるでしょう。「なんだなんだ、歌ってのは、春の歌と、夏の歌と、秋の歌と、冬の歌しかないってのか。」やれやれ、これでは歌を組分けするのにも一苦労です。名前をつけて組分けするってのは、本来そういうことです。ロクでもないものなのです。それでも我々は、名前をつけて組分けしないとやってられないのです。

 

な 何の話だったの?

さあね

 

ここらで真面目に秋の歌について考えよう

秋の歌っていったら……えー……ほらあの……あれあるじゃないですか……夕焼けに……とんぼが飛んでて……カラスも飛んでて……うさぎも飛んでる……松虫も飛んでるし……それでもみじが……もみじがいいかんじの……いいかんじのアレで……もみじはその……もみじ……もみじも飛んでる……秋は……なんかすごい飛んでて……はた言ふべきにあらずみたいな……

 

今週のお題「秋の歌」

 

 

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