珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

成功転嫁と世の残酷さについての覚書|私には失敗の才能があったからあの時ちゃんと失敗出来たんです

なにも考えずに書くブログは楽しい(ブログコンセプト全否定)

ある人の成功を転嫁する先は、今思いついた限りで3つある。まずその人の才能自体。続いて補助的要素の有無や多寡。続いて対象の難易度。続いて運。4つあるやんけ。思いつきで喋り始めてその場で内容を考えながら書くからこんなことになるんですよ。いやホントいきなり何言ってんだって感じですが、もっと噛み砕いて言えば、ある人がなにかを成し遂げた際に、当人がそれを分析して、「私に才能があったからそれを成すことができた」と評するか、「私を助けてくれる存在があったからそれを成すことができた」と評するか、「それが簡単だったからそれを成すことができた」と評するか、「たまたま運がよかったからそれを成すことができた」と評するか、ということである。この3つ、もとい4つに対してより厳格な区別や定義を与えることはこの場ではしません。言葉を変えているだけで内容的に重複する部分も大いにあることでしょう。しかし厳格に区別や定義はしません。何故なら思いつきで喋り始めてその場で内容を考えながら書いているからです。ガッハッハ。

 

成功の素人意見で恐縮ですが本当に成功の素人意見なんですよね

思いつきで「成功を転嫁する」などというトンチンカンな日本語を用いてしまったが、これについては特に理解する必要はない。人はよく失敗をそれと無関係のナニカになすりつけたりするが、同じ具合に人は成功をそれと無関係のナニカになすりつけることもあるよね、みたいなことを言いたかった。しらんけど。私はそんなに成功したことがないので分かりませんが、日頃から成功に慣れてる人、成功って案外持て余しませんか?しらんけど。失敗であれば人は躍起になって半ば本能的にそれを小さく見せようとするが、それが成功となると、気の進まぬままに半ば義務的にそれを小さく見せようとするでしょう。そんで、その過程で成功を無関係のナニカになすりつけてヤレヤレ一件落着ってなったりするでしょう?しらんけど。

 

なるほど

人が成功の理由として上に挙げた4つのいずれかを使用する際に、大真面目に的外れな分析から、もしくは謙遜から(たぶんこれが1番多い)、もしくはイヤミから、明らかに不適切なものが選択された場合、それを聞かされた側の人間にとってこれほど残酷なこともないよなあ。例えばある人のある成功がその人の才能に基づくものであったにも関わらず、その人が「これが簡単だったから出来たんだよ、私じゃなくても出来るよ」と言い、それを聞いた相手が「ほほう簡単なのか、じゃあ自分にも出来るかもしれない」と思い、実行して、「なんやこれ全然簡単じゃないやんけ!」となったとき、それは残酷である。逆に、例えばある人のある成功が対象の難易度に基づくものであったにも関わらず、その人が「これは私の才能があったから出来たよ、私のような才能がなければ出来ないよ」と言い、それを聞いた相手が「ほほう才能が必要なのか、じゃあ自分には無理かもしれない」と思い、最初から諦めて実行せずに終わったとき、それは残酷である。もしくは「ほほう才能が必要なのか、じゃあ自分には無理かもしれない」と思いつつ実行して難なく成し遂げたとき、それはそれである意味残酷である。成功した人が。

 

才能がなさすぎるという才能

ひょっとすると上の段落の前者の例は対象が容易だったからではなく、またAに才能があったからでもなく、Bにあまりにも才能がなさすぎたことに多く原因が帰属するかもしれない。しかしここでも逐一反論することはしません。何故なら思いつきで喋り始めてその場で内容を考えながら書いているからです。ガッハッハ。

 

理系がギャンブル沼に落ちたので証明してみた。

宝くじを1枚買って大金が当選したら「運がよかった」のかもしれないが、販売されている宝くじのほとんどを買い占めた上で大金が当選したらそれは「宝くじを買う予算がごまんとあった」からで、平たく言えば「お金というサポーターのおかげ」であり、もしもそれが最初から98%の確率で大金が当たる宝くじであれば大金を当てることが容易であったということに基づくだろうし、宝くじを当てる才能というのも、考え難いがまあなくもない。いつどこで何枚買えば当たりやすいかということをめちゃくちゃ調査したり、神社で宝くじが当たりますようにとお祈りした人たちの膨大なデータを用意してそれを分析したり、最終的にそれらの精密なデータに基づいて購入し、結果として大金を引き当てる、そういうこともまあ、才能と言えなくもないわな。

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山本アリフレッド先生の書く残念イケメン好き ドM提督も好き

 

私が巷の『成功本』に見向きもしない理由

世の中では今この瞬間にも、「簡単だったから出来た」と言われたことがその実当人特有の才能に由来するものだったとか、「運がよかったから出来た」と言われたことがその実当人特有の莫大な財産に由来するものだったとか、「才能があったから出来た」と言われたことがその実その瞬間特有の奇跡的な運に由来するものだったとか、「お金があったから出来た」と言われたことがその実対象特有のアホみたいな容易さに由来するものだったとか、なんかそういう感じの的外れな成功のなすりつけが、あちこちで行われているわけです。成功した当人が語る成功した理由ってのは、案外アテにならんものです。その一方で失敗した当人が語る失敗した理由ってのは、驚く程アテになったりするものです。はぁ。不思議だね。

 

 

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