どこまで行っても交わらない二本の線についての覚書|文章を書いていた時間<サムネ用画像を探していた時間
今日の一言
世界は私のこと嫌いだろうけど私も世界のこと嫌いだから安心していいゾ
誰かから面と向かって嫌いと言われたことはないけれどもし誰かから面と向かって嫌いと言われたらこっちも安心して相手のことを嫌いになれるので好きよりもむしろ嫌いって言われたいんですね
互いが互いのことを嫌いでいること。これほど穏やかで安心できる関係もあるまい。ここには均衡がある。安定した均衡がある。「どちらでもない」はただの一時的中立であって、特別安定しているわけではない。いつ「好き」に転ぶか分からないし、「嫌い」に転ずるか分からない。それは安定とは呼べない。「好き」が不安定なのは言わずもがなである。人間の「好き」は全く当てにならないって、人間以外の万物がそう言ってる。一方でかの「嫌い」は……マァなかなかに頑固で、だからこそ三者の中では最も安定していると思う。世界は私のことが嫌いで、私は世界のことが嫌い。だからこそ、私は今日も安心して眠りに就くことができるのである。
先月買ったはいいが組み立てる気力がなくて未だにダンボールのまま部屋の中央に鎮座しているリクライニングチェアのダンボールくん重たいし自分で歩いて部屋の角にくっついててほしい
「嫌い」にはね、こう、堆く積み上げたダンボール箱の角を部屋の角にピッタリ合わせて置いたときのような安定感があるのだ。堆く積み上げたダンボール箱が部屋のド真ん中にあるのはちょっと落ち着かないでしょ。堆く積み上げたダンボール箱を部屋の壁沿いに置いただけじゃまだちょっと不安でしょ。でも堆く積み上げたダンボール箱を部屋の角にピッタリくっつけたら、なんとなく安心するでしょ。ダンボールの箱の角と部屋の角がピッタリくっついてるのは安心するでしょ。「嫌い」ってのは、ダンボール箱の角と部屋の角がピッタリくっついているということだ。ダンボール箱的には多分そこがベストポジションだろうし、部屋の主である人間的にも多分そこがベストポジションだし、部屋の角的は……部屋の角的にはちょっと迷惑かもしれません。部屋の角に直接訊かないと分かりません。まあつまりそういうことだ。どういうことですか?
だってカレーを見て例のカレーのことを思い出したところでそのまんますぎてぜんぜん面白くないじゃないですか
「嫌い」と「憎い」はぜんぜん違いますからね。皆さん的にはどうか分かりませんが、私的にはぜんぜん違いますからね。例えばある人がシチューを見たときに、そういやこないだ数日寝かせたカレー食ったら腹壊したなあという記憶をふと思い出してムッとするようなら、その人は例のカレーのことが憎いんだと思います。その人は決してカレーのことが嫌いなのではなく、ただ単に例のカレーのことが憎いだけなのです。このようにわりと健康な人にとっての「憎い」は極めて範囲の狭いものですが、健康を損うにつれて「憎い」の範囲はどんどん広がっていくので気を付けよう。世界とか人類を憎み始めたら大変だぞ!健康第一!ところでなんでシチューを見てカレーを思い出すのかって?シチューを見たらカレーを、カレーを見たらシチューを思い出すのは自然なことでしょう?
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とまあそんなわけで、世界が私のこと嫌いで私が世界のこと嫌いという構図は、至って平和的な関係なわけですね。ハイ。なにがそんなわけなんだろう。嫌いなんだからわざわざ干渉する気も起きないし、干渉する必要もないわけで、世界と私が描く二本の平行線はたちまち美しい抽象画となるだろう。美術館に飾られちゃうな。病室に飾るのもいいだろう。私は世界のことが嫌いだけど世界のことが憎いわけじゃないよ。世界もそうであってほしい。世界が私のことを嫌いなのはまったく一向に構わないのだけど、世界が私のことを憎いと思っていたらちょっと厄介だ。均衡が崩れてしまうから。願わくば、世界と私が永遠の平行線でありますように。