珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

人生横断ウルトラクイズについての覚書|罰ゲームが怖いだけでは

幸せになりたいか~~~っ!!!

シーン…………  

 

AではないはBではない

おお聞こえる。聞こえるぞ。「幸せになりたい」の代わりに「不幸でさえなければそれでよい」という声が。何!?幸せであることと不幸ではないことは同義ではなかったのか!?ハイ。そんなわけがありませんね。ぬく いことと冷たくないことは違いますもんね。平常であることと非常ではないこととは違いますもんね。好調であることと不調ではないこととは違いますもんね。みんなは幸せであることと不幸ではないことを取り違えないようにしましょうね。人間、この辺りに関しては多少強欲でもいいと思うんだ。強欲……強欲?強欲であることと寡欲ではないこととは違いますもんね。

 

(´-`).。oO(書くことがなくなってしまったな……)

いつもの

 

昨昼見た夢書きます

ジャングルに潜伏中ヘンな爺さんに左右の首筋を銃で撃たれた

 

頭バーバー

左右の首筋を銃で撃たれたので肩周り血ダラダラだったんですけど、私の方は「痛え~~~」くらいの反応だし周囲も「大丈夫~~~?」くらいの反応だし実際驚異の治癒力であっという間に流血止まったのでそのままオシャレな美容院に行きました。違うよね?行くべきは病院だよね?殺人的な傾斜角の階段を上った先にある狭い美容院で髪を切ったあと、これ当分の間横になりづらいのやだなあって膝を擦りむいて湯船に浸かるのが億劫な小学生みたいな感想を抱いたところで目が覚めました。ちなみになんで潜伏中だったかというと、どっかと戦争をしていたみたいです。

 

ここでニーチェ先生のありがたいお言葉

「生れのよい人々」は自分たち自身をまさに「幸福な者」と 感じた、、、 。彼らはまず敵の様子を見てから自分たち自身の幸福を人為的に組み立てたり、場合によっては説きつけたり、 瞞しつけ、、、、 たりする(《反感》をもつすべての人々のいつもするように)必要がなかった。同様にまた彼らは、充ち足りた、有り余る力をもった、従って 必然に、、、 能動的な人間として、幸福から行動を分離するすべをも知らなかった。――彼らにあっては、活動しているということは必然に幸福の一部なのだ(《ε πράττειν》〔うまく行く〕という言葉はここから来ている)――すべては無力な者、抑圧された者、毒心と敵意とに疼いている者どもの層における「幸福」と著しい対照をなしている。

ニーチェ(2010)『道徳の系譜』(木場深定訳) 岩波書店

 

ないです(無慈悲)

活動が幸福のうちに組み込まれているということ……彼ら自身には拒否権のない幸福から常に追い回されているということ、幸福を拒否出来ないことが却って彼らの不幸になりかねないということ、そんな彼らの不幸こそ我々が喉から手が出るほど欲している幸福であるということ、この世には幸福であるが故に不幸である人と不幸であるが故に不幸である人とに二分出来るということ、我々のうちにあって「悩みを一切持たない」人間は時に周囲から異質なものとして扱われるということ、病を持たないことこそ病であるとみなされること、過ぎた健康は病であるということ、病は実存するが健康は概念に過ぎないということ……ワカラン。色々考えるけど、ワカラン。この世に救いはないんですか?

 

私の自由の敵が私の不自由ではなくアイツの自由なのだとしたらそれはとても悲しいことであります

自由を望むことと自由を選ぶこととまさに自由であることは兄弟でもなければ親戚でもない、却って互いが互いの不倶戴天の敵であるように思われる。自由の敵は不自由ではない、また別の自由なのだ。なんつって。