彼ら/我らと狂気/理性がコペルニクス的転回を起こす覚書|最も信用出来るものと最も信用出来ないものが実質同じじゃないか
ここすこ
かれらの考えによると、物事の真理か否かはそれを認める者の多いか少ないかで決定されるべきではなく、そして、同じものでもこれを味わう或る人には甘く思われ、他の或る人には辛く思われるので、もしすべての人が病気でありあるいは狂気であって、健康でありあるいは理性的であるのは2人か3人であったとすれば、この2人か3人かが病気であり狂気であって他はすべてそうではないと思われるであろう、というのである。
すこです
いいから樽に入るんだよ
私個人としてはこの赤字で装飾した部分が大変気に入っているのだが、文脈としては「アリストテレス自身が日頃批判的に見ている人たちがこんなことを言っていた」であって、前後の文章を読み込むと「確かによくよく考えたらおかしな話だ」に行き着くのだが、それはさておき私個人としては大変気に入っているのである。私は哲学者でもなければ学ある者でも正しき者でもいわんや真っ当な人間でもないので、時にはキニク派やメガラ学派といった、何かにつけてけちょんけちょんにされがちな人たちの主張の方が腑に落ちる場合も少なくないのだ。そういう人たちの主張の中から、王道もしくは正統とされる連中の主張を斬り伏せられそうな鋭い刃を見つけた時は、まさに血湧き肉躍るといった体である。矛盾だらけ?ガバガバ論法?そんなものを支持するなんてとんでもない?何とでも言ってくれ!今は 私が好きな 主張の話をしているんだ。 正しい 主張の話なら、いつか余処でやろうじゃないか。
どこにでも線引き出来るがどこにも線引き出来ないもの
ところで世界はほんとうに、大多数の人々がそう認識しているであろう如くに、病気でありあるいは狂気であるのは 彼ら であって、健康でありあるいは理性的であるのは 我ら なのか?この「彼ら」「我ら」は特定の誰々を指すのではない。私やあなたが「彼ら」と思ったものが彼ら であって、「我ら」と思ったものが我ら である。我ら人間の「彼ら」「我ら」という基準ほど信用のおけないものもない。我らはいつも「彼ら」「我ら」を基準にして争いを起こしてきたじゃないか。敵は「彼ら」で味方は「我ら」だ。それを相手から見てみれば敵は『我ら』で味方は『彼ら』である。とはいえ、このように「彼ら」「我ら」という分類が双方完全に一致している間はまだいいのだ。面倒なのは、この「彼ら」「我ら」が時間・場所・状況によっていとも容易く変動するという性質を持っているために、「彼ら」の間における「彼ら」さえ安定せず、「我ら」の間における「我ら」ですら不安定になり、あーあー、とにかく、なんだ、我らはいつ崩れてもおかしくない足場の上に立っているということだ。私が考えている「我ら」「彼ら」とあなたが考えている「我ら」「彼ら」はきっと別物だろう。ならば私が今ここで考えている「我ら」「彼ら」に、一体なんの価値があるのだろう。
カオスこそが理性だった?
人間社会ってのは大概カオスだけれども、こんなカオスな空間において、自分のことを 正しく狂気 と認識している人はひと握りもいないであろうと考えると頭がバグりそうになる。そりゃそうだ、自分こそが狂気であり理性的なのは周囲の人間の側である、なんて、たとえそれが事実であろうとなかなか認められるもんじゃない。それに、自分のことを 正しく狂気 と認識できる程度の理性があるならばもはや狂気とは呼べないのでは?それこそ真性の狂気は生まれながらのサイコパ……くらいのものになるだろう。そんな人間にしたって、数えるくらいだろう?なのに、どうして身近なあっちこっちがこんなにもカオスで溢れているんだ?みんな、自分が理性的だと思いながら生活しているんだな。ちなみに自称狂気マンについては実際のところ8割くらいが理性をきちんと保持しているのであんまり気にする必要はないだろう。しかしまあ、「自分は理性的な人間である」という各々の自己認識が本当に正しかったのなら、世の中は正しく理性的な人間で溢れかえっていたはずであって、こんなにカオスになってないわな。ここに来て、我らが長いこと理性だと思っていたものが実は狂気で、狂気だと思っていたものが実は理性だった可能性が……?そういう設定の作品はいっぱいあるけどね
すなわち
我らがそれを理性と呼ぶのならそうなんだろう。我らん中ではな。