珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

難しい本の”優”しさについての覚書|「わからない」という心地良い感覚

初めに釘を刺しておくが、私は意識高い系ではない。

最近読んだ文庫本。

・『エミール(上)』ルソー

・『後世への最大遺物/デンマルク国の話』内村鑑三

・『方法序説デカルト

もう一本釘を刺しておくが、私は意識高い系ではない。

先月くらいから本が読めるようになったので、張り切ってAmazonを漁ったり、ブックオフに行ったりして、少しずつ本を揃えている。……ええと、「読めるようになった」とは?――文字通りである。それまでは読めなかったの?――その通りである。

恐らくここ4、5年程度だろうか、全く本が読めなかった。一応、それ以前は普通に読めていた。正確には、読めども読めども内容が全く頭に入ってこなくなった。頭に入ってこないから、同じ段落を5回も6回も読み直してみる。どんなに文字を丁寧に追っても、追ったそばから忘れていって、何も記憶に残らない。文字列がただの黒い帯に見えてくる。当然、つまらなくなる。その繰り返しなものだから、2ページくらいでどうにも眠くなって、抗っても抗っても瞼が落ちてきて、寝る。どんなに頑張っても一度に3ページとか4ページが限度。指がそれ以上ページを捲った時には既に夢の中である。娯楽としての読書はおろか、学業としての読書や、資格勉強のための読書すら出来ない。そうして私は本を読むことを止めた。大学も辞めた。

 それはさておき、(再び)本が読めるようになってから、どうしてこのような堅苦しいタイトルばかり選んでいるかというと、「わからないから」である。

何かを得ようとして哲学書のようなむつかしい本を読むには、私の頭はあまりにも不足している。よって、何かを得たいわけではない。何かを引き出して、人生の糧にしようなんて高尚なことは考えていない。ただただむつかしい本を読んで、「うーん、わからん」となる、その感覚に言いようのない心地よさを覚えるのだ。

うーむ何かすごいことを言っておられるようだがいっぺん読んだだけではわからない。全てわからないわけではないが、大体わからない。わかるようでわからない。あっでもここはわかる。ここだけわかる。ここしかわからない。あとはわからない。

今の読書は義務ではないので、それくらいアホ丸出しの読書をしても良い。誰も私を咎めはしない。ベッドの上でごろごろしながらむつかしい本を読んで、「わからない」を満足行くまで摂取して、少し眠くなって、本を放り投げて寝る。義務で本を読んでいた頃とは違う。今の私には、「わからない」ことは決して苦痛ではない。「わからない」ことも含めて、読書という娯楽だと思えるようになった。

では「わかる」本はどうか。……「わかる」本とは?そういった本は、結構つらい。理解、納得、同意、共感、同情、憐憫、そういった感情(?)が心になだれ込んできて、飽和して、つらくなる。

これではあまりにもふんわりしているので例を挙げると、仮に『貧困フリーター、その現実』とか『大学中退者の人生設計』とか『炭水化物大好きなあなたのためのダイエット』とか『片付けられない女』とかいうタイトルの本があれば、それは私にとって「わかる」本であり、つらい本である。何故つらいか。「わかる」からである。これ以上の説明は不要だろう。「わからない」本はそういった意味で、優しい本なのだ。

一応補足しておくと、上の3冊は岩波文庫の「青」シリーズの中でも非常に読みやすい部類だと思う。題材が身近だったり、 一篇一篇が短かったり、単純に文章が易しかったり。全てブックオフでたまたま見つけて購入したものだが、どれも今の自分に刺さる本だった。「欲を小さくし、自分の身の丈以上のものを得ようとせず、知ろうとせず、見せようとせず、自分の内において思索し、自分の内に何かを積み上げながら、真面目に生きよう」。3冊読んで、思ったことはこれくらい。これくらいしかない。でもこれくらいが身の丈に合っている。そう思っている。

 

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