普通の人間が積み重ねることの意味についての覚書|ぷりぷりのゆで卵とサクサクの唐揚げ
つみ かさ・ねる [5] 【積(み)重ねる】
うーん。
うーん。
人々の記憶や人類の記録として残るような何かを持ち得る者ではない、普通の、平凡な、ありふれた、葉先の露、一粒の麦、畦道の砂、せいぜいその程度の重さしかない、有象無象の中の1つ、持たざる者である自分が、何かを積み重ねようとすることに意味があるのかについては、常々考えてしまう。
やろうと思えば何かに着手できる程度の余裕はある……と思う。けれども、何かに着手して、幸いささやかな何かを残せたとして、そのささやかな何かは一体どこへ行くのだろうという、非常に曖昧な合理主義というか、ひねくれた損得主義というか、そういうものが働いて、いつもモヤモヤしたまま立ち止まっている。
もし私の手から生まれた物質、口から出てきた言葉、頭から湧き出た思想に、1つ1万円の価値が付いたら、1つに1万いいねが付いたら、それで……それで何だというのだろう。お金は好きだ。嬉しい。いいねも好きだ。嬉しい。でもそれきりで、ウン、それきりなんだろうなあ。合計10個生み出せば10万円だし、もしかしたら15万円かもしれない。確かにそれは「それきり」ではないが、ええと、別の意味で「それきり」なのである。それに実際は1万円の値打ちも1万いいねもつかない。これまで無数にあって現在も無数にありこれから先も無数にあるであろう「世の中に有ってもいいが無くてもいいもの」の仲間入りをするだけだ。世界のどこかにはそういうものたちが行き着く場所があるらしい。ウーンウーン。こんなにも自己評価が低く、実際それに見合った程度の才しか持ち合わせていないが、もしかして、私は私から生まれた何かに価値がついて、それであわよくば、他人の記憶に残りたいとでも思っているのだろうか。アッ言ってしまった!
悲しいことに、価値のあるモノを作ったからその人に価値があるのではなく、価値のある人が作ったモノだから価値がある、という構図が往々にして存在し……ではその人が持っている価値はどこから来たのか。人の価値が先か、モノの価値が先か。ウーンウーン。卵も鶏もマヨネーズをかけたら美味しい。セブンイレブンのゆで卵を食べたことがない人間は来世と平行世界の分まで損してるから食べた方がいい。あっこれ私が知っている数少ない有用な情報なんですけど、熱々のイカの唐揚げにマヨネーズとお好みソースをかけたら楽園が見えますよ。あと私は今これを書きながらビールを飲んでいます。
私は積み重ねていいのかな?