「気にする」に飲み干される人間についての覚書|主体が行為に敗北する
「気にしてない」のジレンマ
「アクセス数は気にしないようにしています」といった旨の記事を週1ペースで書いているブログを見つけて失礼ながらちょっとフフッとなってしまった。気にしていないのなら何よりである。これ以上は野暮なので突っ込むまい。
「気にする」のことが気になった気がする
ここらでふと「気にする」とは妙に気になる言葉だなあ、と気にしたりしてみる。「気」「に」「する」。言葉を分解し始めると自分の中でも何かがほろほろと崩壊していく気がするので程々にしておこう。この場合の「気」は「関心事」もしくは「心配事」くらいに訳せば丁度いい。関心事/心配事にする。今ではもう「気にする」でひと塊の言葉になってしまったため弄りようがないが、やろうと思えば別に気「と」するでもいいのかな。「終わりにする」と「終わりとする」の違いみたいなものだ。後者は若干堅苦しいニュアンスがある。私は文法の専門家ではないのでこういうガバガバ考察も許されたい。「気にする」という言葉が使われ始めたのは一体いつ頃からだろう。ちなみに室町末~近世成立の狂言には既に「気にする」という言葉が登場する。
ざっくり検索してみたが、「気にする」と「気になる」の違いを説明しているサイトは多々あれど、「気にする」の成り立ち?を説明しているのは見つけられなかった。以下のブログも成り立ちについての解説ではないが、文法上の解説が本格的だったので載せておく。 「『気にする』の方がいっぱい気にしてると思います!違ったらすみません!」みたいなこと言ってる知恵袋回答者はこちらのブログを是非とも複数回音読してほしい。知恵袋回答者の「違ったらすみません」、キュレーションブログライターの「いかがでしたか?」、ツイッタラーの「FF外から失礼します」はインターネット三大滅ぼすべき定型文だと思う。
世の中は「気にしない」ブームだけれども
ところでもし人間が本当の意味で何も気にしなかったならば、周囲のありとあらゆる危険をモロに食らって直ぐにでも死んでしまうだろう。ところが気にしすぎても死んでしまうから難儀なものである。善悪の知識の実を食べたアダムとイヴは、気にする苦しみを手に入れてしまったのね。人間が何かを気にするのはその何かに関する知識があるから。何も知らないことについて気にすることは出来ない。「死ぬ」ということについて何一つ知らない人間が、どうやって自分が今日中に死ぬ事実を気にすることが出来ようか。
75億の人類は「こと」と「行為」に勝てるのか
大昔は「食べ物を手に入れること」「眠ること」「雨風を凌ぐこと」「暖を取ること」「外敵から身を守ること」「病に罹る(罹らない)こと」「生きる(死ぬ)こと」くらいを気にしていればそれで済んだのだろう。ところが時代が下れば下るほど、人が気にすべきこと、気にせざるを得ないことはどんどん増えていった。ある時代の人間が気にしたことが次の時代の人間に受け渡され、散々こねくり回されて膨張し、また次の時代の人間に受け渡される。そこでもまた時代の流れに揉まれて膨れ上がり、更に次の時代の人間に受け渡される。さあさあ人類はこれらの「気にすべきこと」をどこまで抱え切れるのだろう。人類はどこまで自らの「気にする行為」に耐えられるのだろう。人類vs「気にすべきこと」、人類vs「気にする行為」。ハナから人類に勝ち目のない不毛なチキンレースの開幕である。そうして人類の「気にすべきこと」が日を追うごとに爆発的に増え、「気にする行為」の回数も増え、ある日とうとう彼らのキャパシティを超えた結果、人類の大半が鬱症状を発症し、世の中は入院患者や自殺者で溢れかえり、平均寿命はどんどん短縮……という架空の世紀末を気にしたりなどしている。
逃げるは恥だがなんとやら
何かを知るということは、知らないでいる安寧を一生手放すこと。そして何かを気にする苦しみの始まり。ゴロゴロ寝転がっていても知識や情報が入ってくるような時代に、「知らないでいる」のは却って難しい。私の場合、テレビはずっと前に処分した。雑誌の購読も一切止めた。新聞は学生時代以降読んでない。ニュースサイトも封印した。情報通の友人?居ない。Twitterのアプリもアンインストール済み。世間知らずな怠け者の一丁上がり。だって毎日毎日来る日も来る日も、こんなにそんなにあんなに、たくさん、たくさん、たくさんのことを気にするだけの容量なんて、私には無いのだから、仕方がない……ということを気にしたりなどしながら、今日も世間知らずなまま、生きているのである。