珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

経験の匂いがする文章についての覚書|めちゃくちゃ偉そうなことなど言ってみる

見ざる、聞かざる、されど語る

 TSUTAYAで見かけてこれは是非とも買わねばならぬと思い――結局1年以上「欲しい本リスト」に残り続けているタイトルがある。

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 こちらの文庫版と、単行本版のレビューを見る限り、新品で購入しても損はなさそうな代物だ。ひねくれた本好きとして惹かれざるを得ないこのタイトル。『読んでいない本について堂々と語る方法』。人生には時として、やっていないボランティアについて堂々と語ったり、打ち込んでいない学業について堂々と語ったり、そういう必要に駆られる場面がある。神様が我々に想像力を与えてくださったのは、きっと就ナントカ活動を円滑に行うためなのだろう。読んでいない本について堂々と語る必要に駆られる場面なんかもこの先あったりするのだろうか?無論、この本は「読んでいない本について堂々と語る方法」そのものを伝授したいがために書かれたわけではあるまい。作者は「読んでいない本について堂々と語る方法」を通して、我々に如何なる教訓を与えてくれるのか。いやあ読むのが楽しみだな。まだ買ってないけど。いつ買おうかな。積ん読本があと3冊減ったらね。

私の頭の中の廃工場

そういえば世の中には架空の本の読書会なるものもある。

pdmagazine.jp

このアドリブ力、妙技と評して平伏するより他に無し。

いかんせん私は会話力もアドリブ力も皆無なので、賢者に3べん転生してもこんな上手いことやれる気がしない。いや会話力やアドリブ力以上に最も肝心なのは、「自分の考えたことを恐れずに口に出せるか」という度胸であろう。全く面白くない話を堂々と語ってくる人たちには常人の何倍も度胸があるのだ。きっと。無自覚?鈍感?ウンウンそれもまた度胸だね。彼らは頭に何かが浮かぶ度に「自分の考え、面白くないかも……」なんていちいち立ち止まったり、「あわわわわ綺麗な文章に整形しなきゃ、相手に分かりやすく伝えなきゃ」とパニックを起こしたりしないのである。いやいや度胸以前に自分には考えそのものが全く浮かばないのだという人もいるだろう。それも結局、これまで会話の度に立ち止まりすぎたせいで「考え生産工場」そのものがストップしてしまったんじゃないかな。誰かの発言を見たり聞いたりすると、頭の中の「考え生産工場」が即座に稼働し、考えをポンと生産する。ところが最高責任者たる自分(完璧主義のイヤなやつ)が「ええいこんな考え口に出せるか、作り直せ」と即座に廃棄してしまう。それを繰り返す。何度も何度も、何年も何十年も。その間に労働者たちは1人、また1人と工場を去る。そうしてもぬけの殻になる。

あとこれは分かる人だけ分かってくれれば良いのだが、仮に上手いこと話す内容が浮かんだとしても、こっちが何か言おうとした時に相手とバッチリ目が合うと、それだけでもう何もかも吹き飛んでしまう。お陰で私は常に虚空を見ながら話している。

ただ私とて、脳内にある推しCPの架空同人誌についてなら永久に語れると思う。

「『文章論』が面白いブログ」が面白くないわけがないんだよなあ 

ここまで全部前置きである。「『読んでいない本について堂々と語る方法』という本がある。いつか読んでみたいものだ!ところで~」程度にするつもりだったのだが、なんだかんだで1300文字である。なんてこった。もうここらで適当な結論出して1本別記事にしようかな。

そう、えーと、本来何が言いたかったかというと……いやその前にもう1つだけ前置きが必要だ。普段意図してそういう記事を読みに行くことは無いのだが、たまたまとある「ブログ論」の記事にたどり着いた。そこから同じブログの「文章論」系の記事にも目を通した。面白かった。しばらくそのブログの中をうろうろしていた。面白かった。そこで少し考えた。文章を面白く――というと少し敷居が高いので言い換えて、文章を形にするものは一体何なのだろう、と。

ブログを読めば他人の経験をつまみ食い出来る

経験か、或いは経験していないことを経験しているように語るスキルか。そのどちらかがあれば、書いたことはそれなりの形になると思う。どちらも持ち合わせていない書き手による文章というものは、ニオイですぐに分かる。

とはいえブログの書き手がどちらも持ち合わせていないなんてことはまず無い。ブロガーが書くことなんて大抵自分のことか、自分の周りのことか、周りにはないけど自分の頭の中に確かな形で存在することか。つまり文章を書くにあたり事前に何かを経験しているか、何かについて考える経験をしているので、立派に1本の記事として仕上がるのである。「今日は何もなかったので何も書く事がない」というのも、「今日は何もなかった」という経験から生まれた立派な1本の記事だ。あなたの経験の記事だ。自信を持って公開していい。

教えを乞う側もそんなに馬鹿じゃない

ではどちらも持ち合わせていない事例とは何か。察しのいい方なら私の言いたいことにお気づきだろう。私は自己啓発系の情報ブログは嫌いではないしむしろ好んで読む方だと思う。しかしながら確かな経験も無ければ(前述のとおりこれはニオイで分かる)上手いこと経験したかのように語るスキルもない、「今日はこのテーマについて書くぞ」という計画ありきでそれに合わせて言葉を付け足し付け足しし、頭の浅瀬や指先から出まかせの文章を「自己啓発」としてばら撒いているブログを見ると、非常にへんにょりしてしまうのである。本来他人に教示するのはそんなに生易しいことではないと思うんだよなあ。一方で面白い自己啓発ブログは本当に時間泥棒だ。何時間でも平気で居座れてしまう。そこには経験か、経験したかのように語るスキルが確かにある。

たけのこ党

 経験、或いは経験していないことを経験したように語るスキルは文章の中心を貫いて支える一本の柱である。と言うとなんだか重大な話に見えてくるが、実際には何の変哲もない。それに後者はさておき前者の「経験」なんてのは、雨後のたけのこの如くあちこちから勝手にニョキニョキ生えてくるので、そんなに真剣に考えなくてもいい。その日その時で適当に目についたたけのこを1本収穫して、適当にあく抜きをして、適当に茹でて、塩でもパッパと振ればいい。おいしいかおいしくないかは読者が決める。これは普通の書き手がブログを続けるコツ。我々普通の書き手は大雑把な料理をポンと提供するだけにしておこう。考えすぎないようにしよう。1つだけ考えるべきは、その記事にはきちんとたけのこが生えているかということだけである。

 

 結局、本当に前置きだけで1本記事が仕上がってしまったことは秘密。

 

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