珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

時間と信頼についての覚書|貪欲なブロガー精神により生まれた記事

限界夜勤フリーターの夜は早い

起床。徒歩で通勤(45分)。労働。退勤。徒歩で帰宅(50分)。洗顔及び入浴(ガスが使えないので電気ケトルでちまちまお湯を沸かす)。洗濯(洗濯機が無いので全て手洗い)。軽食。気絶。コーヒーで一服。洗い物(食器)。掃除。気絶。少々の読書。ブログを書く。就寝。昨日はこれに発熱という豪華オプションが付いた。結果、気絶から覚めたら既に家を出る時刻の15分後であった。10分で支度をしボロボロの身体に鞭打って普段45分かかる道のりを半分近く走った結果、間に合った。案外なんとかなるもんだ。

ベルフェゴールはそれを減らしたくて仕方がない

社会人が時間をきっちり守ったところで褒められやしないし大した徳の積立にもならない。時間を破って初めて積立分が目減りしていく。時間に対する誠実さとは、実質減るのを待つばかりの理不尽な資産である。例えば「いい子」は少し良い行いをしたところで大して褒められやしない一方で、少し誠実さを欠いた行いをしただけで尋常でない額の積立金を持っていかれる。一方「わるい子」は少し良い行いをすれば尋常でない額の積立金がどっさり上乗せされ、時には感動的なエンターテイメントとして大衆向けのコンテンツにさえなり得る。少し悪いことをしたとて、ただいつも通り、いつも通りに、お叱りを受けるだけ。ある意味、そういった現象と似たようなものだろう。

「時間を守っている」という、一見あまりにも当たり前すぎてそれがどうかしたのかと言いたくなるようなことも、たまにはきちんとした形で評価してあげても良いのかもしれない。そうすれば、「いい子」にとっては重荷でしかなかった理不尽な資産から、れっきとした本人の資産になるだろう。いい歳した大人がいい歳した大人に対して、「時間を守れたの?えら~い!」と言ってあげる。そしてその評価は、ちゃんと本人の資産になる。世の中これくらいのほのぼのソーシャルにならないものかなあ。

 「風邪ですか」「すっぴんです」

自分の話に戻る。多少の仕事上のミスはいいが、遅刻や無断欠勤は誠に許しがたい。と自身が日頃から考えているので、今日目が覚めたら既に家を出る時刻を大幅に超えていた現実を脳が認識したとき、まず1番にやったことは、窓を開けながら「えっ?11時5分?えっどうすんの?笑うしかないんだけど?」みたいなことを堂々と呟きつつ、悠長に洗濯物を取り込むことであった。絶望と混乱具合がよく分かる。お隣さんに丸聞こえである。バイト先で誰かが遅刻してきた時、口では「何かあったのかと思いましたよ~無事来てくれてよかったです!」なんてことを言いながら、頭では静かに信頼ポイントを減らす。私自身がそういう人間だったから、「大丈夫ですよ」とか「たまにはそういうこともありますよ」とか絶対に絶対に言われたくなくて、一時は遅刻する旨を連絡するために握り締めたスマホをそっと手放し、バッグに化粧ポーチをぶち込み、すっぴんにマスクをつけて、ただただ走った。汗はいっぱいかいたが、案外息が上がらなかったことに驚いた。毎日の徒歩通勤と徒歩帰宅の賜物である。そしてこんな出来事さえもブログのネタにしてしまう。毎日更新の賜物である。

信頼/Zero~それがどうした~

表立って人の愚痴を言わない人は、特別心が広いのではない。ただただ無言で、他人に対する信頼を減らしているだけである。むしろそういう、皆が誰かの愚痴を言っている時に眉尻下げてアハハ、と微妙な反応を繰り返しているようなタイプの人ほど、他人に対する信頼をその都度増やしたり減らしたりして、時にはぞっとするほどの冷徹さでもって、緻密に信頼を振りなおしてしている。息を吸うように許しの言葉を紡いで、息を吐くように信頼を減らす。そしてそういう人は、信頼が高い人に対しては勿論、信頼がほぼゼロに近い人に対しても、一見同じくらい優しく振舞うことが出来る。優しく振舞うけれど、信頼はゼロである。これほど恐ろしい優しさがあるだろうか。信頼がゼロだから――ゼロだからなんだというのだ?信頼が高い人、今日も1日よろしくお願いします。信頼がゼロの人も、よろしくお願いしますね。それだけの話。

 

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