人生のなんだかんだについての覚書|送り送られ去り去られ
とあるパート母とフリーター娘の会話
母「異動する店長のお別れ会とかせんの」
娘「半年そこらでポンポン変わる社員のお別れ会とかいちいちやらないよ」
母「そうなの」
娘「そっちのチーフもコロコロ変わるでしょ」
母「うちは毎回みんなでバーベキューするけど」
娘「ええ」
母「職場の駐車場で」
娘「ええ」
年柄年中別れの季節
駐車場で従業員一同がバーベキューをしているファンキーなスーパーを見かけたら、それが私の母の職場なので是非ともよろしくお願いします。それはさておき、前述の店長を始め、2019年は様々な人間が入っては去り入っては去りする慌ただしい1年であった。それらの1つ1つを「出会い」「別れ」と称するのは些か大袈裟な気がしなくもない。彼らにとってこの店は単なる通過点であって、私の如き人間は行く先々で部下となる大勢のアルバイトの1人に過ぎないのだから。とはいえ、ひょんなことから連中と居酒屋に行ったり県外に遊びに行ったりもしたわけで、こんな陰キャコミュ障ド底辺フリーター女のことも、あと1年くらいは、覚えていてもらいたいものである。
革新派vs保守派
私はいつもその場に留まって見送る側で、見送られるのは相手の側だ。みんな新たな一歩を踏み出して行く。ここではないどこかへ向かって歩いていく。私は……私はいつまでここにいるのかしら。就職活動はしないの?車の免許は取らないの?資格の勉強はしないの?副業で稼ぐ道を探さないの?好きなことで生きていこうと思わないの?――最近はこういう声があちこちから聞こえてくる。自分の中から聞こえてくるような気もするし、インターネットの中から聞こえてくるような気もするし、現実の中から聞こえてくるような気もする。ええいやかましいんじゃ。なんだかんだでやれているんだし、それがあと1年続こうが10年続こうが40年続こうが変わらんわい。この歳になったら、何を始めるにしても博打にしかならんのじゃい。
中途半端が1番厄介
「なんだかんだでやれている」という現状に生かされている一方、「なんだかんだでやれている」という現状に殺されかけているのも事実。むしろ「もうどうにもできません」となった方が余程身動きが取りやすいんじゃなかろうか。少なくとも、税金を払っているうちは。無理に変わろうとしなくたって、今のままでも生きるだけなら生きられる。”生きるだけ”を生きることならできる。命はある。寒さを凌げる衣服もある。空腹を凌げる食べ物もある。雨露を凌げる屋根もある。けれども、そればかりさ。そんな人が世の中には溢れている。声は上げづらい。「なんだかんだでやれている」わけだから。んーと、「なんだかんだでやれている」ってことは、「やれている」んですよね。じゃあ、大丈夫ですよね。先生、全然大丈夫じゃないです。
おくられびと
歳を取れば取るほど、足元の陸地が孤島と化していく。他の島へと続く道が1本また1本と海の底に沈み、しまいには身動きがとれなくなる。私は絶海の孤島に1人立ち尽くす老人になる。最早送り出す相手もいない。そうなる前に、何か手を打たねばならぬ。
そうして私も送り出される側になりたい。