珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

答えの無い問いについての覚書|皮抜き具なし餃子のような記事です

哲学の合間に労働を嗜むこと

ところでその外面性の全体が変化したために直接的な人間は絶望に陥ったのであるから、彼は更に一歩を進めていわばこんなふうに考える、彼の願いはこんなふうなものとなる、――「もしおれが全く別の人間になるとしたらどんなものだろう?新しい自分を新調するとしたら?」さてもし彼が別の人間になるとしたら、いったい彼は自分を見わけることができるものだろうか?

キェルケゴール死に至る病』p87,岩波書店,1992

(※この引用に特に意味はない)

近頃はバイト中ずっと自己について考えているので、湯船からざばざばと溢れるお湯の如きストレスを僅かばかり減らすことに成功している。自分と客の間に絶えず哲学のフィルターを下ろしておくのだ。するとどうだろう、哲学のフィルターの奥に透けて立つ客は実に哲学的な客に見える。哲学の網に掛かった客、哲学モルモットと言っても良い。押して駄目なら哲学しよう。ところでここんとこずっと頭に引っ掛かっている疑問があるのだけれど――もしかして、私は死んだあとも『私』をやらなくちゃいけないのか?

『私』ロールが続くということ

死んだあとも『私』をやらなくちゃいけないのかというのは、要は死んでからも私は白黒れむという者として死んでいなければならないのか?ということである。あっ白黒ははぐろって読みます。名前が白黒れむであることや性別が女であることや誕生日が8月14日であることや国籍が日本であることやその他諸々の『私』を抱えたまま、死んだ魂でいなければならないのだろうか。それとも死んだあとは名前も性別も誕生日も国籍もその他諸々も全て失ってしまうのだろうか。ウーン、これは哲学ではなく単に答えのない無謀な問いなのでは?いやいや同じことさ。

全ての魂が一になるということ

再度問いを言い換えれば、死んだあとの人間は個であるか無であるかということである。死後の世界に戸籍があったらどうしよう。仮に無であったとすれば、我々が死者に対して生前好きだったモノなどを供える行為は一切意味を成さないものになってしまうな。個が存在しないのだから、宛先不明で戻ってきてしまう。一方向こうの世界においては、死んだ私と死んだあなたの境目はすっかり無くなってしまうことだろう。私は輪郭を持たない死んだ魂、あなたも輪郭を持たない死んだ魂。そこに名前による違いは無く、性別による違いは無く、誕生日による違いは無く、国籍による違いは無く、その他諸々による違いも無い。自己に関するありとあらゆるものの所有権を失ったのだから生前に積んだ徳も犯した罪も関係なく、同質の輪郭を持たない死んだ魂としてそこにあるだけ。そこに個は一切存在せず、同質の魂がどこまでもどこまでもどこまでも均一に……粘土に別の粘土をくっつけてこね回して1つの塊にするように、魂に別の魂がくっついてこね回されて1つの塊になる。塊魂だよこれ。あの世には個を失った無数の魂がただただ空気のように広がっているのかも。

最近はクソ暇だなあということ

私はこの問いに答えが欲しいわけではなく、答えがあるとも思っていない。むしろ答えがあっては困る。ただただその場の苦痛を緩和する手段として、トロトロと時間のかかる点滴のようなものが、答えの無い問いが必要なのである。薬としての答えの無い問いが。考え事をしていてうっかりバスを乗り過ごした時のような時間が労働中に絶え間なくやってきてほしい。新年会もひと段落し更に大学生の卒論の時期であることが関係しているのか平日は客が少なく、勤務中暇を持て余すことが多い故に、いらんことばかり考えすぎて勝手に憂鬱に陥ってしまう。手持ち無沙汰な店員が椅子に腰掛けてスマホをいじってもいい日本社会になるまでにいったい世界は何度滅びれば良いのだろうな。答えの無い問い。効能:現実の苦痛を和らげる。副作用:知恵熱。

 

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