珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

かつては生きており、今は死んでいる人間についての覚書|あの日見たミイラの名前を僕はまだ知らない

どうしようもねえのはお前だよ

ここ数日「生きてる人間ってほんとどうしようもねえな」と思うことがあまりにも多いので、「じゃあ死んでる人間ならどうしようもなくないのでは?」と思い、慰めにネットでミイラの写真を探してはぼんやり眺めるなどしている。ミイラ、元々好きなんですよね。子どもの頃に古代エジプトこじらせてたくらいの人間なんで。古代のミイラは考古学的なロマンがあって実にいいし、近代のミイラは髪や服が残っているものが多いぶん実に生々しくて恐怖を誘うのだが、そのリアルさがまた、いい。

shirokuro-044.hatenablog.jp

 

だいたい小学国語辞典のせい

なんでそんなにミイラが好きかというと、その起源は6歳の頃に遡る。幼稚園の卒園記念に名入りの小学国語辞典を貰ったのがめちゃくちゃ嬉しくて、ピカピカの学習机に座ってそれをパラパラめくっていたら、「木乃伊(ミイラ)」の項目に本物のミイラの写真が小さく掲載されており、それを初めて見た私は、目玉どころか内臓が外れるほどの衝撃を受けたのだった。ミイラだけに。全身の力どころか全身の水分が抜けるような心地がした。ミイラだけに。当時6歳の私曰く。「死んでる人だ……」。多分あれが生まれて初めて見た死体だと思う。それで、不気味でおっかないのにどうしようもなく目が離せなくなって、数センチ四方の小さな二色刷り写真を超至近距離でまじまじと眺めて、「ほう……」と感心の溜め息をついた。興奮冷めやらぬうちに母の元へ走って行って、わざわざその写真を見せた。母は「ヴォァー」みたいな声を出していた。その後の私はなにかにつけてミイラのページを開いては、あの写真を食い入るように見た。人の形をしたものが、カラッカラに乾いている。人なのに、人じゃない。人じゃないのに、人。それから月日が流れ、かつて小学国語辞典のミイラのページにこっそり折り目をつけていた1年生も4年生になり、なんやかんやあって、古代エジプトにどハマリすることになるのであった。

 

無口な生き物は可愛い

生きている人間ってほんと苦手なんですけど、死んでいる人間については案外そうでもないのかもしれません。誤解を招かぬよう言っておきますが、私は決して人間が死ぬことが好きなのではありません。人間に死んでほしいわけでもありません。ましてや死体愛好家でもありません。それはただのやべーやつです。私はあくまで、かつては生きており、今は死んでいる人間に、ぼんやりと思いを馳せるのが好きなだけです。これは大きな違いですから、くれぐれもお間違えなきよう。死んでいる人間といったって、なにもミイラのように形が残っているものだけが対象というわけでもありません。例えばかつては生きており、今は死んでいるソクラテスプラトンアリストテレスといった特定の人物にも、彼らが生前に成した一切の業績を抜きにして、大変な愛おしさを感じます。もちろん名のある人物に限ったことではありません。かつては生きており、今は死んでいる、ありとあらゆる人間に思いを馳せるのが好きです。その一方で、彼らがかつては生きていた彼らではなく、今も生きている彼らであったなら、そうはいかなかったと思います。だってもしも、もしもですよ、もしもソクラテスが今私の目の前で生きていたりなんかしたら、「なんだこの変な爺さん……」と眉を顰め、目を逸らし、そそくさと避け、「やっぱり生きてる人間ってどっかおかしいんだな」と合点して、それで終いになったでしょうね。

 

我々の心の代弁者トラシュマコスニキすこ

当人が生きているうちは絶対関わり合いたくないような変な爺さんでも、それがかつては生きていた変な爺さんとなると、一種の味のあるキャラクターに思えてくるから妙なもんだ。プラトンの対話篇を少しでも読んだことがある人に聞きたいんですけど、ソクラテスとかいうあの変な爺さんと、現実で関わり合いたいと思えます?例えば自分がレストランで働いてて、お昼どきにソクラテスがやってきて、「何名様でしょうか?」とこちらが尋ねているにも関わらず、店先で突っ立ったままウンともスンとも言わずなにかを考え込んでおり、夕方になるまでずっとその場に突っ立ったままでいるような爺さんと、関わり合いたいですか?私なら警察呼んで出禁にしちゃうね。ソクラテス、出禁!ウフフ。ちょっと面白い。まあ史実のソクラテスもあちこちで出禁というか、共演NGというか、そういう扱いを喰らってたみたいなので、あながち空想というわけでもない。

 

死んでからが人生の本番

そう考えると、己のことについて言ってみても、今生きている私よりも、かつては生きていた私の方が、愉快で、妙味があり、個性があって、より愛着をもって迎えてもらえるのかもしれない。人曰く、今生きている白黒れむという人間は現実で関わり合うと面倒な人間だが、かつては生きていた白黒れむの方は、なんというか、言うほど悪い人間じゃないし、まあ、案外いいヤツだよ、みたいな。フーン。人はよく冗談めかして「来世に期待しよう」などと言うが、そんな具合で「かつては生きていた自分に期待しよう」というのも、アリっちゃあアリだな。来世とかいう何が一体どうなるのかさっぱり予測のつかない最果ての自分に期待するよりも、かつては生きていた自分に期待する方が、単純明快、直截簡明、安常処順、三平二満。

 

狂えばカリスマ、吠えれば天才、死んだら神様、何もしなけりゃ生き仏、かつて生きてりゃただの人

たとえば5000年くらい前にギルガメシュという王様が生きていて、今は死んでいるらしい。たとえば3300年くらい前にツタンカーメンという王様が生きていて、今は死んでいるらしい。たとえば2000年くらい前にアウグストゥスという王様が生きていて、今は死んでいるらしい。たとえば1200年くらい前にシャルルマーニュという王様が生きていて、今は死んでいるらしい。たとえば500年くらい前にエリザベス1世という女王様が生きていて、今は死んでいるらしい。たとえば50年くらい後に白黒れむという無名の凡人が死んでいて、今は生きているらしい。

 

 

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