珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

自分が自分である理由についての覚書|水を得た魚、理由を得た人間

哲学スターターデッキに拡張パック『恋愛』と拡張パック『弁論』が3つずつ付いた限定デラックスキットみたいな本

私という人間に価値は無く、私という存在に意味も無いが、私が私という器に入れられたことには何か理由があるらしい。今はプラトンの『パイドロス』を読んでいる。私は書評が致命的にヘタクソなので具体的な中身に触れることは避けるが、もし過去に戻り12歳の私に1冊だけ本を与えることが出来るとしたら、私は間違いなくこの『パイドロス』を残して立ち去るだろう。哲学を考えるのに12歳はいい頃合だ。なんなら10歳の私に与えてもいい。言葉と恋と魂について考えるのに10歳は早すぎるということもあるまい。また全ての漢字にふりがなを振ってくれるのなら、6歳の私に与えることも検討しよう。人間について考えるのに、6歳は早すぎるということもあるまいよ。

よじ登り難く転げ落ち易い

ところで意味深な冒頭で記事を始めたはいいものの特に続きは無い。ただ『パイドロス』を読みながらなんとなく考えついた次第である。自己の生命や存在に関する理由と、意味と、価値は、マズローの欲求五段階説みたいな具合にピラミッドで表せるんじゃなかろうか。まず根底に自分が自分である理由があり、それに対しては「自分が自分であることを受け入れる(≒諦める)」という試練がある。これをクリア出来なかった人間は死人になる。次に自分がここにいる意味があり、それに対しては「自分で自分の存在に意味(=世の中における役割)を見出す」という試練がある。これをクリア出来なかった人間は廃人になる。頂点に自分という存在の価値があり、それに対しては「自分で自分の価値を創出する」という試練がある。これをクリア出来なかった人間は凡人になる。うへえ。人生ってもしかして……難しい感じですかね?

納得も諦めも行き着くところはだいたい一緒

ところで自分が自分である理由について、『パイドロス』に倣って具体性を持たせるならこう。前回、私はしがないロバであったが、しがないロバなりにちゃんとやったので、今回私は人間という器に注いで頂くことが出来た。しかしちゃんとやったとはいえしがないロバは所詮しがないロバであり、勝ち組エリート人間の器を与えるにはまだ早いから、まあ最初はしがない人間の器から始めてみようねということだ。あるいは逆にこう。前回、私は勝ち組エリートであったが、勝ち組エリートの器を鼻にかけあれこれと良くないことばかりやったので、今回私はしがない人間の器にランクダウンされた。理由がどちらであろうと今私が私という器に入っている事実しか享受のしようがないので、この器を頂いたからにはこの器でやっていくしかないのである。これらは言ってしまえば古今東西大小問わずどの宗教にもある転生観だ。どうして古今東西大小問わずどの宗教にも見られるのか。やはり、皆「自分が自分という器に入っていることに対して納得出来る(=諦めのつく)理由」が欲しくて仕方がないのだろう。「天がくじ引きで決めたから」とか「月がテキトーに割り振ったから」とか「宇宙はお前のことが嫌いだから」とかいう理由よりもずっと受け入れやすい……はず。人は常に自分に関する理由を求めている。理由を吸っては理由を吐いて生きている。酸素と同じくらい、下手すれば酸素よりもずっと多くの吸って吐いてを繰り返している。

真理――近づけば近づくほど遠くに見えるもの

考え込みすぎて腹が減ったので食パンを齧りながら失礼する。哲学は、人に近づくことと人から遠ざかることを同時にやってのける学問だと思う。地球の裏側に立っている医者が地球の表側にいる患者の手術をするようなものだ。人に近づきすぎる故に却って遠くなり、人から遠ざかりすぎる故に却って近くなる……哲学にとっての「ちょうどいい場所」は一体どこに存在するのだろう。哲学の巨匠たちは、その「ちょうどいい場所」に限りなく近い位置まで到達したが故に色褪せぬ名著として現代まで読み継がれているわけだが、彼らをもってしても「ちょうどいい場所」には至っていないのだろうなあ。知らんけど。

 

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