珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

アマチュアの根暗についての覚書|ひとりになりたがるものの

私かな?

うわの空で、不注意で、退屈しきって、自分がどんな印象を人に与えているかも気づかずに、勉強しかけてはしばしば中断したり、計画を立てては実行せず、遊んでもおもしろくないといった具合で、私は時を過ごしていた。その時、見かけはほんのつまらない事情が、私の気持に重大な革命をもたらすことになった。

パンジャマン・コンスタン『アドルフ』より

 私かな?

孤独以上孤高未満(くらい)

「私かな?」と思った読者の皆様ごきげんよう。そんな皆様には是非この『アドルフ』をお薦めしたい。岩波文庫版で150ページ程度の比較的短い読み物である。私はまだ初めの40ページ程度しか読み進めていないのだが、もう既に腹一杯の共感と羨望を食わされて胃もたれを起こしている。主人公のアドルフは、一言で言えば鋼鉄の根暗根性を持った男である。わざわざ「鋼鉄の」と付したのは、彼が自らの確固たる意思と信念を持って孤独の道を歩んでいるからだ。世間を小馬鹿にしながらいざ自分がその輪から排除されそうになると慌てて愛想を取り繕って世間にしがみつくような小物とは大違いの。己の性分がどこか世間一般から逸脱していることを自覚しつつも、その性分を決して偽ることなく己を貫き、性分の命じるままに人を遠ざけ、それ故に自身へ向けられた数多の軽蔑も冷静に受け止め、恐ろしい程客観的に自己を分析してみせる。更に俗っぽく言えば、プロの根暗である。カッケー。

ひとりを愛する者、ひとりを恐れる

私の根暗の程度はアドルフと比較すれば随分アマチュアだが、基本的にひとりが好きである。世間の目を一切気にすることなく根暗の道を歩めたらどんなに良かろうかと思う。周囲の目を一切気にかけずぼっちの道を歩めたらどんなに生きやすかろうと思う。ところがここでは世間や周囲の目が「あるけど気にしない」ことを望んでいるのであって、決して世間や周囲の目が「一切自分に向かない」ことを望んでいるわけではない。素直に白状すれば、孤独を愛する一方で孤立を酷く恐れているのだ。なんせ根暗としてアマチュアだから。心地の良い孤独とは、周囲に誰かの存在がなければ成立し得ないと思う。自分は今ここにひとりだけれども、すぐ近くには誰かの存在があって、決して1人ではない。そういうひとりこそが私にとっての理想の孤独である。それってすなわち、誰よりも周囲の人間を愛していることにほかならないのではなかろうか?周りの人々に(心の中でこっそり)中指を立てながら、その実彼らのことを心から必要としているのではなかろうか?自分のことは放っておいてくれ、けれど自分のことを見捨てないでくれ、という無茶な要望を世の中に押し付けて今日も生きている。

Twitter再開するか~

ネットを眺めていると、時折「人間関係リセット癖」に関する話題を見かける。私もよくやる。ただそれも結局のところ、彼らを捨ててもきっとどこかに別の誰かの存在がある、というふわふわした謎の安心の上に乗っかっているのだろう。現実はさておきインターネット上でなら「誰かの存在」は濡れ手に粟である。手を伸ばせば必ず誰かがいるし、飴玉掴み取りくらいの気持ちで誰かを引き寄せて、鼻をかんだティッシュを捨てるくらいの気持ちでそれを手放すことも出来る。これを人の繋がりの進化と見るか退化と見るか。私にはまだ判断しかねる。

 

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