人生における消化と消化される人生についての覚書|消化不良の秋
うまあじ
ウーン。人生に旨味がない。日々暮らしている中で、「もう一度味わいたい」とか「ちょい足しアレンジを楽しみたい」とか「自分の手でこの旨さを極めてみたい」と思うような出来事が無さすぎる。ラーメンの話ではない。人生の話である。楽しい出来事があればまた近いうちに経験したいと思うし、ここはああするとよさそうだなあと思う出来事があれば次はもうひと工夫したいと思うし、趣味なり特技なり天職なりが見つかればそれをもっと磨いていきたいと思うだろう。そういうものが無い。旨味となる対象すら無くて、対象を構成する素材さえ無い。ラーメンで例えるなら、1杯のラーメンそのものはおろか、麺も、スープも、チャーシューも無いし、鍋も無ければ皿も無い。来る日も来る日も鷲掴みした小麦粉を生で食らっては腹を壊している。ラーメンが食べたいなどという贅沢は言わない。ただ、私の目の前に完成された1杯のラーメンがあってほしい。例え麺の1本スープの1滴すら味わうことが許されなくても、手の届くところにラーメンがあったらそれだけで嬉しい。セブンの蒙古タンメン食べたいなあ。
人生消化試合
人生の旨味についてこれ以上期待できないのなら、せめて消化にやさしいものを自分に用意してやりたい。ツルリと口に入り、胃腸を刺激せず、またツルリと出て行ってくれるようなもの……まばたきしたら1日が終わっていて、あくびをしたら1週間が終わっていて、伸びをしたら1ヶ月が終わっていて、一服したら1年が終わっていて、横になったら100年が終わっているような……圧倒的やさしさ。旨味の見込めない人間が自己を労わる手っ取り早い方法は、己の人生を刺激しないことだ!人生の負担になるものを避け、人生の助けになるようなセンイなどを摂り、時折人生のマッサージを試みるなどして、人生が健気にぜん動運動を繰り返すのをじっと眺めながら暮らすのだ。ところでその人生さえも、何者かによって取り込まれるところのものであり、何者かのぜん動運動によって常に消化されつつある立場である、何か我々の認識を超えたものが、我々の人生をその終わりに向かってグイグイ押し出している。「人生の出来事」を消化吸収しながら懸命に動いている「人生」は、「人の生」を消化吸収しながら生きている強大な何者かの栄養あるいはウンコでしかないのだ。
こちとら消化される前からウンコなんじゃ
で、我々はその「強大な何者か」に反抗して腹を壊させる何かに自ら進んでなってもいいわけだし、「強大な何者か」のためを思って善玉菌的な何かを目指してもいいわけだ。自分の人生を飲み込んでいる何者かが、自分の人生から栄養ばかりを奪っていくのは癪だということで、栄養の欠片も無い無機物の塊となってコロコロ転がっていく道を選んでも、逆に吸収しきれないほどの栄養でもって何者かの腹をびっくりさせてやる道を選ぶのもいいだろう。初めからウンコとして口に飛び込んでやるのもなかなかファンキーだと思う。消化に良いものばかりを与えられて何の刺激もなくやってきた人生はさぞかし味気なかろう。消化不良を起こすものばかりを与えられて万年自らを壊してきた人生はさぞかし具合が悪かろう。私の人生を消化している何者かに問いたい。私の人生はお前にとって善玉菌であればよいのか、悪玉菌であればよいのか、栄養であればよいのか、ウンコであればよいのか、それともそれ以外の何者かであればよいのか。こちとら何を食って、何を避けて、何を取り込んで、何を出せばいいのかさっぱり分からんのだよ。
つらいラーメン
辛いものは好きだけど辛いものは好きじゃない。ラーメンの辛さは選べるのにどうして人生の辛さは選べないんだ。ラーメン3辛、人生0辛で頼む。