珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

この世の苦痛と快楽から逃げ回りながら書いた覚書|『珈琲三杯』史上恐らく最も重い右ストレート

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ひとつの苦痛を中和するのに一体どれほどの快楽が要求されるのだろう。そしてひとつの快楽を得るのに一体どれほどの金銭と、時間と、努力と、幸運と、その他諸々が要求されるのだろう。更にそれらの金銭時間努力幸運その他を得るのに一体どれほどの……どれほどの……金銭時間努力快楽その他が要求されるのだろう。金銭を得るための金銭、時間を得るための時間、努力を得る(?)ための努力、幸運を得るための幸運、金銭を得るための時間、時間を得るための金銭、努力を得るための幸運、幸運を得るための努力……ええいキリがないではないか!異なるn個のものから異なるr個を取り出し並べる順列を今すぐやめろ!苦痛が我々に請求書を突きつけるところの快楽、その快楽が我々に見積書を突きつけるところの金銭時間努力幸運その他、それらに関する場所にさえも結局は苦痛しか存在しない。何故ならそれらは全て互いに互いを底なしに要求するから。底なしの要求、形なき者共の組んず解れつ、請求書と見積書の無限乱舞、書類にハンコを押すためだけに出勤する我々、それを苦痛と呼ばすに何と呼ぼう。つまり、苦痛を中和するのは質の違う苦痛でしかないのだ。凡人にとっては。

 

生憎全部売り切れてる

我々があるひとつの苦痛に向かって「それ(苦痛)そのものの中和」を要求すると、その要求に応じて苦痛はすぐさま我々に快楽の請求書を送付してくる。我々は送られてきた請求書を眺めながら、快楽に宛てて見積依頼書を送る。すると快楽も依頼に応じてすぐさま見積書を送付してくる。そこに列挙されたものを全て招集し、苦痛を受けている本人を含めた出席者全員の折り合いが付くまで話し合いを始める。直接的には快楽によって、間接的には苦痛によって要求されるものの中で最も頻繁に名前が挙がるものは「金銭」「時間」である。しかし金銭と時間はすこぶる仲が悪く、常に相手側に多く出させようとする。金銭は「時間さえ払えば解決する」と言うし、時間は「金銭さえ払えば解決する」と言う。まあどっちの言い分も一理ある。次いでよく名前が挙がるものが「努力」「幸運」である。彼らは「金銭」「時間」と比較すると遥かに賢いので、例え苦痛を中和するために彼ら自身を差し出したところで、苦痛が中和されるとは限らないことをよく知っている。よって、彼らは賢いが非常に怠惰である。「努力するくらいなら幸運を当てにしろ」と平気で口にするし、「幸運を当てにするくらいなら努力しろ」と気軽に言ってのける。この四者以外に挙げるとするならば、「友人」「環境」「知恵」「力」……そんなものだろうか?個人的には「猫」とか「コーヒー」も入れたいところだけどね。

 

快苦快快苦快苦

昨日の記事では「苦」は「快」が転じた姿と書いた。今回は「苦」を中和するところの「快」を成り立たせるものは結局「苦」なのだから「苦」を中和するのは「苦」ということを書いた。ウーン、我々の世に純度100%の「快」というものは存在するのか?逆に考えれば純度100%の「苦」も存在しないのかもしれないが、99%くらいまでなら平気で存在すると思う。この世のあらゆる「快」がまやかしで、「苦」のみがただそこにあるだけなのでは?決して「苦」が「快」を覆い隠しているのではなく、我々が勝手に「苦」の内に幻想を差しているだけなのでは?ウゲーッ。昨日の記事では「快」を長持ちさせる方法とか書いたような書かなかったような気がしたけれど、「快」を長持ちってそれ要はより長く幻想を見ているための方法ってことですよね?ヤバいキノコでも食ってろ!現実で「ゲームが面白い」とか「ラーメンがおいしい」と感じている時の「快」は、「ゲームがしたいのに課題のせいで出来なくて苦しい」とか「ラーメンが食べたいのに店が全部閉まってて苦しい」という「苦」の下準備に過ぎないと考えたら絶望しかない。ゲームを知らなかったら「ゲームがしたいのに課題のせいで出来なくて苦しい」という「苦」なんか生まれ得なかったし、ラーメンを知らなかったら「ラーメンが食べたいのに店が全部閉まってて苦しい」という「苦」も感じっこなかったのだ。言ってしまえば、「何も知らない」ことが苦痛に真正面から対抗できる最大の武器なのだ。お腹の中の赤んぼは何かを知っているのかな。もしかして手足の動かし方を「知って」いるのかな?……いよいよ人類が苦痛に打ち勝つ望みが薄くなってきた。

 

セブンのデカくて茶色いツナマヨおにぎりうまいよ

感覚としての「快楽」は存在するが、えっと、実在?実態?実存?としての「快楽」は存在しない、というこのくらいで妥協しておこうと思う。流石に感覚としての「快楽」まで否定していたらなんのこっちゃ分からなくなる。今のところは。さっき食べたツナマヨおにぎりが美味しかったという感覚としての「快楽」は一体何だったのかという話になる。今のところは。ツナマヨおにぎりが美味しかった、いずれ「またツナマヨおにぎり食べたい」へと転化する君。いつか私はツナマヨおにぎりを求めてコンビニに行ったのに売り切れていてムッとしたり、労働中に突然ツナマヨおにぎりの衝動を感じてモヤモヤしたりするのだろう。こいつ食い物の話ばっかしてんな。

 

反省

労働中は大体こんなことを考えてます。次はもっと軽めのジャブ打ちます。

 

 

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