珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

怒りとストレス、それから関心と無関心についての覚書|自省しながら牛乳飲んでどうぞ

きょうのひとこと

危うく憤死するところだった

 

キレてない!!まだイライラしてるだけ!!

日頃、我々がいきなり大爆発せずに済むのは、ストレスという偉大なるクッションが、我々と不可視の爆弾との距離を身を挺して保っているお陰である。そう思わないとやってられない。ストレスの、そうストレスのお陰で、今日は、今日のところは、一応、なんとか、辛うじて、爆発しなくて済んだ。うぐぐ。キレやすい人がキレやすい・・・人に留まっている所以も、ひとえ にストレスのお陰である。キレやすい人はそうでない人よりもストレスのクッション作用が甚だ貧弱であるが、それでも決して作用しないわけではないのだ。一切のストレスが作用しない人間なんてのがいたら、そいつはもう「オギャー」の時点で憤死している。というわけで、今日も1日爆発せずに済んだことに――1番の功労者たるストレスに対し――感謝せねばなるまい。ありがとうくたばれ

 

毒を以て毒を制すのやめろ

何かよろしくない出来事に接する度に、我々は爆弾へと一歩近づいていく。一方ストレスは我々を爆弾へ近寄らせまいと、自らを膨らませて距離を維持させようとする。我々は接近する。ストレスは膨張する。我々は更に接近する。ストレスは更に膨張する。それが延々と繰り返されると、あとはご想像通り、ストレスが爆発する。パンパンに膨れ上がったクッションが、爆弾もろとも爆発するのだ。「カッとなってやった」が爆弾単体の爆発なら、「長年の恨みのためにやった」はストレスから爆弾への見事な誘爆だ。「そこまで怒っているとは思わなかった」と口にする人は決まって、相手の爆弾そのものしか見ていない。真に恐ろしいのは爆弾本体ではなく、相手と爆弾の間ではち切れんばかりに成長したおぞましい何かの方である。

 

気にするなという助言もあながち無用ではない

無関心は万病の予防薬だ。無関心は怒り、恐怖、絶望、悲しみ、ありとあらゆるものの予防に効果がある。ある意味で死にも効く。死に対して無関心でいられるならば、死は呼吸することと何ら変わりがないからである。もちろんストレスにも効く。ストレスは前述の怒りやら恐怖やら絶望やら悲しみやらを濾して出た上澄みのミックスジュースみたいなものだから、そりゃよく効く。私は是非ともこの万病の予防薬を終生服用することにより人生を快適にやり過ごしたいと思うわけだが、無関心という薬は無関心の木からしか採れないので、無関心に至るための一回り大きな無関心、つまるところ無関心への無関心が必要になる。無関心への無関心というものは、そりゃもう気が遠くなるほどの無関心の位置にあって、そこに到達するまで頑張るくらいなら、いっそポックリ死んだほうがお手軽なんじゃないのか。ウーン、この世には無関心よりコスパが良い薬があるらしい。

 

「気になる」とかいうストレス無限製造機

ではその逆はどうか?ありとあらゆるものへの関心、好意、期待、気遣い、心配り、優しさ、思いやり、そういったものは万病の素となりうるのか?まあ、惚れた腫れたで人が死んだりするんだからそういう場合もあるんだろう。人は関心の無いものに対して悩んだり苦しんだりしないのだから。関心の数だけストレスがあるというのなら、私は随分好奇心旺盛なことだ。

 

 

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