人間に100を付け足す覚書|人間の表面にそれほどたくさん貼るスペースがあるとも思えないのだが
アイエエエ
なぜ人はこうも「一般教養としての何々術」が好きなのか。下手すると本体である「何々」よりも「何々術」の方が好まれるまである。勉強よりも勉強術が好きだとか、読書よりも読書術が好きだとか、ノートよりもノート術が好きだとか、金よりも金増やしの術が好きだとか、ニンジャよりも忍術が好きだとか。「一般教養として」という前置きを添えたのは、この場合スポーツの技術とか演奏の技術とかそういう類のものは含めないからである。とはいえ私も「何々術」の本を眺めるのは好きだし、実際、あの手の書物は「何々」に対するモチベーションを上げるのにもってこいではある。実行に移すかどうかは置いといて。なので、別に「何々術」自体をどうこう言うつもりはない。ただし我々はくれぐれも、かの健康のためなら死んでもいい人たちのようにだけはならないよう細心の注意を払いながら、「何々術」と付き合っていくべきであろう。
やせます
一部を除けば、大体のものは増やすより減らす方が簡単であるし、創るよりも壊す方がやさしいし、身に付けるよりも手放す方がお気楽である。一部ってのは、そうですね、例えば体重とか、体重とか、体重とかですかね。地球上に掃いて捨てるほどある「体重を減らす術」の類も、言い方を変えれば「美と健康を増やす術」であるわけだが、かといってそれを言い出すとキリがないし、下手すると減らしたり壊したり手放したりという概念自体が消滅してしまうのでここではやめておこう。「英語を身に付ける術」のことを「英語ができないことを手放す術」などと言い換えてみたところで、一文の得にもなりはしない。
10億円が当選したので100万円を振り込んでください的なアレ
人にとっては減らしたり壊したり手放したりする方が簡単だが、術にとっては却って難しいのかもしれない。術は我々の中の余分な1を減らそうとして100を付け足すようなことを平気でやってのける。一切の悪意なく、呵責なく、躊躇なく、そういったことをサラリと成し遂げるのである。そして我々の方も、「あの1を減らすためにこの100を付け足すといいですよ」という術の言葉を真に受けた結果、101をぶら下げてその重さにヒィヒィ喘ぎながら生活する羽目に陥ることがある。してやった自覚がまるで無い術も、してやられた自覚がまるで無い人間も、まったくもってカワイイものだ。ボケとボケじゃコントが成り立たないんだよ。
算数の文章題のように減らしたり増やしたりしろ
我々が日々何かを増やしたり創ったり身に付けたりしようと躍起になっているのは一体何のためであるのか、だんだん終着駅が見えなくなってきた。ウーン、本当に何かを増やしたり創ったり身に付けたりしたいのだろうか?本当に?本当は何かを減らしたり壊したり手放したりしたいんじゃあなかろうか?私がお金を増やしたいと思っているとき、その裏ではお金なんかよりずっとずっと重大な何かを減らしたいと思っているんじゃないか?何かを減らしたり壊したり手放したりするために何かを増やしたり創ったり身に付けたりして、結果余計に多くなった分を減らしたり壊したり手放したりするためにまた別の何かを増やしたり創ったり身に付けたりしているんじゃないか?減らすために増やす、増やしたら増えたからまた減らすために増やす。こんな馬鹿げた無限回廊が許されるの、人間くらいですよ。
一方その頃母の実家の冷蔵庫はバスの時刻表や特売のチラシや水道業者のマグネットやタクシーの番号で溢れかえっていた
術に喰われないように気をつけながら生きるのはまこと骨が折れることだろう。無邪気な顔で我々に100を付け足そうとしてくる術があれば、一旦それは警戒しなければならない。人間は実家の冷蔵庫ではないのだから、そうやって何でもかんでもぺたぺたぺたぺた貼り付けないでほしい。もしもこの世に勉強術のためなら一生勉強できなくても構わないという人がいたならば、それこそ笑いものである。だが勉強術はそういう人をこそ愛する。そりゃそうよ。自分を最も愛してくれる人なんだもんね。そして、世の中にそのような人が多からんことを願い、行く先々で無邪気に100を付け足すよう勧める。我々はときどき自分の身体を眺めて、余計なものがぺたぺたぺたぺた貼り付いていないか点検するべきである。かつての実家の冷蔵庫は、幼い自分が 無邪気に 貼り付けたシールやテープやマグネットや切り抜きで溢れかえっていた。人はあまりそうあるべきではない。人間は実家の冷蔵庫ではない。