0歳未満の自分と戦って負けることについての覚書｜まあ、とりあえず生まれてから考えますわ
私から28年前の私へ
「確かにね、ここには文字通り この世の全て がある。ここはいつだって素晴らしいもので溢れかえっていて、例えばそう、美しい景色、心地よい音色、可愛い生き物、興味深い書物、おいしい食べ物、魔法のような技術、豊かな暮らし、何もかもを満たしてくれる全てがここにあって、今の君はそれら全てと薄い壁越しに隣り合っている状態だ。この世のありとあらゆる全てを見たり、聞いたり、手に入れたりする権利が今の君には備わっていると思ってくれ。 ありとあらゆる全て をだ！しかしだね、いいかい、ここからの話をよく聞いてくれ、ここにはこの世の全てがあるのだから、当然この世の素晴らしくないものも全て存在するわけだ。おぞましい景色、不気味な音色、恐ろしい生き物、悪意ある書物、まずい食べ物、悪魔のような技術、貧しい暮らし、何もかも全てがここにあるわけだ。で、今の君はそれら全てとも薄い壁越しに隣り合っている状態なんだ。君はこの先、これら全てを手に入れるかもしれない。この世の素晴らしくないもの、 ありとあらゆる全て をだ！しかも悪いことに、ウン、ここからはもっとよく耳をかっぽじって聞いて欲しいんだが、そういう素晴らしくないものに出会ってしまった場合に、目を瞑りたいと願ったからといって瞑れるものじゃないし、耳を塞ぎたいと祈ったからといって塞げるものじゃないし、捨てたいと頼んでも捨てられるもんじゃないし、まあなんだ、ここから逃げたいと思っても簡単に逃げられるもんじゃないのさ。正直に白状しちまうと、実際得られる素晴らしいものなんかこれっぽっちしかなくて、それ以外は辛くて、苦しくて、痛いことばっかりさ。それでもここに行きたいと思うかね？君はほんのひと握りの素晴らしいもの見たさに、ありとあらゆる艱難辛苦を耐え忍ぶ覚悟があるかね？君はそれでも、 ここに生きたい と思うかね？」
私から28年後の私へ
「まあ、あなたの言うことは分かりました。要するに、そこには素晴らしいものが沢山あるけれど、それ以上に辛くて苦しくて痛いことが沢山あるから、そこに行くかどうかはよくよく考えて決めなさいよってことでしょう。あなたの言う辛くて苦しくて痛いことは確かに恐ろしいけれど、それでも私は素晴らしいものが見たいのですよ。それにほら、こう言うのもナンですが、私は、 私に限って 、そんなに沢山の恐ろしいものに出会う気がせんのですよ。だって少なくとも、私は日本という国に生まれることだけは決まっているわけだし、日本は豊かな国だと聞いておりますよ。そりゃ生きてりゃ多少嫌なことはあるでしょうけど、今すぐ目を瞑りたいとか耳を塞ぎたいとか何かを放り捨てたいとか、ましてやそこから逃げ出したいだなんて、 私に限って そんなことになります？毎日沢山の人間が生まれている中で、私に限って ？ねえ。私はそこに行きますよ。日本の四季は良いものだと伺っていますし、食べ物はおいしいらしいですし、勉強も、遊びも、お買い物だって沢山したいです。謹んでお頼み申し上げます、是非私をそこへ行かせてください。私はそこへ、 生きたい と思います」
…………
儲けが出ること前提なんか～い
さて、遡ること28年前、現在27歳3ヶ月半の私が生まれるより少し前に、果たしてそんなやり取りがあったかは知らんが、あったと仮定するならば、未来に生きる私の必死の説得を振り切って、「私」は生まれてきてしまったらしい。今ここに生きている自分が、生まれる前の自分をどうにかこうにか説得して、生まれることを諦めさせる自信のある人がいるならば手を挙げて欲しい。生まれる前の自分は、これから投資を始めようとしている人に似ている。投資を始めようとしている人だって、投資をすることに伴う諸々のリスクについては十分承知しているはずだ。とはいえ、彼の心の大半を占めているのは「期待」である。増えたお金で何をしようか考えるだけでワクワクだ。億万長者になりたいとは言わないけど、でも数万の儲けくらいなら自分にも出せるかもしれないし、いや本当に、何十万とは言わない、堅実に、数万でいいんだ、もし数万あったら本が沢山買えるし、旅行にだって行くことが出来る……こんな具合にいくら謙虚に抑えようとしても抑えきれない「期待」が「恐れ」を上回るから、彼は投資なんぞに手出しするのである。彼は、はち切れんばかりの「期待」を「儲けは数万でいい」という謙虚な姿勢とすり替えることによって、それを「リスクに対する覚悟」の代用品としている。イヤイヤ「リスクに対する覚悟」ってのはねえ、「仮に数十万損してもとやかく言わない姿勢」のようなものであって、「イヤ自分、 儲けはほんの数万 でいいんで！」と平身低頭することではないのだよ。
ハードボイルド・ベイビー
あー、つまるところ、なんだ、28年前の自分を「この先めちゃくちゃ辛くて苦しくて痛いことが待っているぞ」とどんなに脅したとしても、「イヤ自分、そんな金持ちになりたいとか思ってないんで！普通に、慎ましく、ちょっとくらい貧乏でもそこそこに生きられたらそれでいいんで！」と言いながら、生まれてきてしまうんだろう。お前、それはこれっぽっちも「リスクに対する覚悟」になってないぞ。本当の覚悟というものはだな、「私は、例えばその日の寝床にも食事にも困る有様だとか、頭のてっぺんからつま先までコンプレックスだらけだとか、口から胃が飛び出そうになるくらいのストレスまみれの日々だとか、そんな人間に生まれ或いはそんな人間に育ったとしてもそれらは全て承知の上であって、全て抱え込んで生きていく覚悟が出来ているし、ドブ川の水を濾過して飲む方法や食べられる雑草の種類だってもう(生まれる前から)頭の中にブチ込んである、なんなら深海や火口で生まれたっていいし、桃の中に詰め込まれてドンブラコドンブラコするのだって厭わない、さあさあ、この世の素晴らしいものと出会いたくて仕方がない私を、お前が思いつく限りの極悪非道な環境に生まれさせてみせろ」というくらいの気概を指すのではないかね。
変わらなくともやっていけるのはある意味大人の証
人が期待を抱く場面というのはいかなる時か。それは多少なりとも、変化を伴う時ではあるまいか。青少年の時期は変化でいっぱいだ。数年に1度の学校替え、年に1度のクラス替え、月に1度の席替え、思いつかないが週とか日ごとにも何らかの”替え”があったに違いない。環境だけではなく、身体も、思考も、趣向も、気分も、下手すれば数時間おきにぐるんぐるんぐるんぐるん変わっていたのがあの頃だ。あの頃は、じっと座って口を開けているだけで変化の方から勝手に飛び込んできた。大人になったら、自分の方からとっ捕まえに行かなきゃならない。あの頃に変化の捕まえ方を学べなかった大人が、毎日毎日同じところに座って、変化もなく、故に期待もなく、淡々と生きて、淡々と終わっていくのだ。
