珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

安堵アンド安堵についての覚書|「わたしの人生」終 制作・著作/わたし

終わらせなきゃと思ってるときの私は大体凶暴

60分かかる仕事に120分の持ち時間が与えられていたとしても、それを完全に終えてしまうまで、ただただ恐怖と不安と焦燥に駆り立てられているような生き物が、私である。そしてその仕事を姿の見えない何者かに追い立てられながら必死こいて45分で終わらせて、終わらせたその時点で、初めて私の中に余裕というものが生じる。なんだろう。ただその仕事が「終わっていない」というだけで恐ろしい。仕事に着手する前の段階では当然進捗0%なわけだが、その進捗0%という事実がただただ恐ろしい。早く着手したいし、早く完了したい。進捗が80%を越えたあたりでようやっと安堵が見えてくる。それも遠くに見えるというだけで、私はその安堵を掴もうとして必死に仕事を仕上げる。安堵を掴んだ時に、初めて仕事が終わる。

 

追い立てられている時もしんどいのにそのあとの暇な時間もしんどいとか地獄かよ

思うにこの性分は、時間の使い方が特別下手なのではなく、かといって上手なのでもなく、精神的エネルギーの使い方が致命的に下手くそなのだ。それが上手い人は、「おっ、持ち時間が仕事にかかる時間の倍もあるじゃん、勝ったな」となって、気楽に悠々仕事を進めたり、もうちょっと生真面目な人ならば「普段あまり出来てないところにまで手をつけられるじゃん、やったぜ」となって、計画的に黙々と仕事を進めたりするのだろう。ちなみに私の場合、残りの75分は安堵のあまり放心しているか、「早く終わらせすぎちゃったな~~暇だな~~早く終わらせすぎちゃったからな~~いや~~どうしようかな~~」などといって、それまで一切見られなかった余裕を全放出してイキりながら鼻をほじっているかのどちらかになる。

 

ただ1度の安堵を得るために80年も人生やるのコスパ悪すぎない?

「ことが順調に進んでいること」は私に対して何の安堵も与えない。ただ、「ことが無事完了したこと」のみが私に対して安堵を与えうるのである。この理論に従うと、私が私の人生で安堵を得るのは、「人生が順調に進んでいるとき」ではなく、「人生が無事完了したとき」になるのではあるまいか。不安の中をもがいてもがいてようやくホッと出来る日が人生が終わる日だなんて酷すぎる。せめてあの世の門に、盛大な飾りつけと、賑やかな出迎えと、豪勢なご馳走を用意してもらわなければ困る。人生が無事完了して得る安堵を享受出来るのはこの世の私なのか?あの世の私なのか?いやそれ以前の疑問として、私は人生を「無事」「完了」することが出来るのか?万が一「無事」に「完了」することが出来なかったとしたら……私の安堵は一体どこに行ってしまうんだ。そして、安堵を得られなかった私は一体どこへ行ってしまうんだ。こんなことを人生が完了するその日まで、ずっと心配してなきゃいけないのかなあ。

 

花京院!イギー!アヴドゥル!ポルナレフ!終わったよ……

人生が「無事」に完了しなかったら、それは単なる終了である。「完」も「終」も、何かの締めくくりとしてよく用いられる文字だ。「勝ったッ!第三部完!」とか、「終|制作・著作 とか。 「完」にあって「終」にないもの、それは「まっとうする・なしとげる」という意味。そもそも「完」自体が「完うする」と読めるわけで、一方「終」にはそれがない。私は、私の人生には、現状そもそも完了させるタスクが存在しないので、完了しようがなく、この先待ち受けているのは「終了」の方なのだ。間違いなく。とはいえ、完了だろうが終了だろうが、人生のゴールテープを切れたらそれでいいんじゃあないか?人生がこの先無限に続くような目に陥りさえしなければ、なんだっていいんじゃあないのか。まあ、それもそうだな。

 

出すための肉体が無い

この世でやることやりきれず、この世で出すもの出しきれぬまま「終了」を迎えた私のせいで、あの世の私は四六時中残尿感でもじもじしてるかもしれないが、この世の私には関係のないことだ。

 

 

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