珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

遊びたい人たちの不自由な遊びについての覚書|「遊び」は遊びじゃねえんだよ

よく遊び、よく遊び、よく遊ぶ

人は、まだ遊び足りないのか。人は、こんな状況下におかれてもなお、まだ遊びたいのか。人は、まだ遊びを欲するのか。人は、どれほど遊べばその腹が満たされるのであろうか。人が生じてから滅びるまで、すなわちこれまでとこれからを含めた全人類が費やすであろう総和として考えるに、人はこの地球上において最終的にどれほどの量の遊びを貪り消費し尽くすことになるのだろうか。人が遊びに対して、「ああ、もう遊びはお腹いっぱい」と満足して箸を置く日は、この先果たして来るのだろうか?いや別に来なくてもいいんだけども。結局、世の中に不要不急の遊びなんてあるもんか。そう、遊びとは常に火急を要するのだ!人生の短さのために常に火急を要しておきながら、それでいて驚くほど取るに足らないこと、それが遊びなのだ。そうだろう?

 

あの世ではいっぱい遊ぶんで

以上、日頃から「こんな状況でもまだ遊びたい人たち」を大勢眺めている者の所感であった。「遊びたい」というのはいいことだ。健康的だし、交友関係にも良いし、何より経済が回る。「遊びたい人たち」がしこたま遊んで経済を回してくれるお陰で、私のような「遊びたくない人たち」が遊ばずに暮らしていけるのだ。とはいえ今はこんな世の中ですから、例えばほら、世界中の「遊びたい人たち」が足並み揃えて1週間、いや3日だけでも遊ぶのを我慢してくれたなら、なんかこう、ねえ、ちょっとはどうにかなるんじゃないかしらなんて、何一つ具体性のないふわふわシフォンケーキみたいな仮説を脳内で振りかざさずにはおれないわけですよ。 しかし、こうした状況下だからこそ、こういった「遊びたい人たち」がいなければ世の中の居酒屋やバーやカラオケ店やキャバクラやホストクラブがやっていけないのもれっきとした事実であって、「平時も遊ばない」私にはああ言う権利もなければこう言う権利もなく、四方八方から正当な手段で発言権を没収されてお口チャックしている状態でござんす。

 

「遊び」の重責

密に当たるからという理由で子供がおみせやさんごっこを自粛したところで社会にとっては別になんともなかろうが、大人がおみせやさんごっこを自粛したら職を失って路頭に迷う人々が出てくるかもしれないというのは、全く以て難儀である。いやね、やってることはどちらも「遊び」じゃないのさ。かくも大人の「遊び」は責任重大なのだ。大人が商業施設で「遊ぶ」か「遊ばない」か、大人が飲食店で「遊ぶ」か「遊ばない」か、大人が旅に出て「遊ぶ」か「遊ばない」かによって、世の中がめちゃくちゃになったりならなかったりする。「遊び」とは……「遊び」とはもっと、取るに足らないことの謂いではなかったのか。神様が何でも出来るというのなら、これら「遊び」と経済・社会をゴッドパウワーで綺麗さっぱり切り離して、我々が遊ぶのを一時的に中止したからといって、誰も職を失いはしないし路頭に迷いもしない世の中にしてほしい。何を一体どうしたらそんな天国みたいな世の中になるんだって、知らない。もし神様がそうすると言ってくださるんなら、してくれるんでしょう。『経済活動は継続する』『人に遊ぶことを止めさせる』「両方」やらなくちゃあならないってのが「エラいさん方」のつらいところだな。人が遊んでも人が死ぬし、人が遊ばなくても人が死ぬんだ。

 

お前が遊べば私が儲かる

 かくいう私も「遊びたい人たち」のお陰でメシを食っているのであって、この先彼らがパタリと遊ぶことをやめたらどうしましょう、という心配が無いでもない。遊んでほしいのも山々だし、遊ばないでほしいのも山々だ。まあ、人の「遊び」に対する執着は並々ならぬものがあるので、クソデカ強制力くんが加わらない限り人々が遊ぶことをやめたりはしないんだろうけど。いやあ、人間は本当に遊ぶことが好きだなあ。

 

 

f:id:shirokuro_044:20201223170328p:plain