畑から採れるiPhoneについての覚書|地上で進歩する技術と地底に棲む人間のままならぬ関係
他人の手塩で芋が食いてえ
地底には地底なりの良さがあるのだ。静かで、涼しくて、穏やかで……他人の芋がたくさん穫れる。芋を植え付けるのは、地底人ではなく地上人である。当然ながら地上からは地中の芋の様子を視認することは出来ず、ただ暦を眺めながらその収穫期を伺うのみであるが、彼らが今か今かと収穫を待ち望むその芋は、地底に生きる我々の目の前にいつもぶら下がっているのである。いや芋は「地底」まで行かないだろとか、そんな野暮なことを言うのはナシだ。いいね?とにかくそんなわけで、地上人が手塩にかけて育てている芋を、地上人が収穫する前に、我々がくすね取ることが出来るのである。しかしながら、その芋は丸々肥え太った芋ではない。何故なら、収穫期に地上人がやって来るより先に我々が収穫せねばならぬ故に、それらの芋は収穫に最適な時期を待たずしてちぎり取られるから。我々の前には、小ぶりで、細身で、ころころ、ひょろひょろとした芋ばかりが並ぶ。我々はそれを調理して、食べる。ウーン、悪くはないが、ちと物足りぬ。きっと適当な収穫時期に収穫した芋は、もっと大ぶりで、丸々としていて、ごろごろ、ぶくぶく、実に食べごたえがあり、舌も腹も満たされることだろう。だが地底人たる私にとってはこれで良いのだ。裕福な地上人のことだ、畑の一角から不自然に芋がなくなっていても、気にしやしないし、多分気づきもしないんだろう。彼らの畑は無限に広がっている。
「完成したもの」より「それが完成するまでのプロセス」に愛着が湧くこと
地上人が植え付け、地上人が水をやり、地上人がせっせと雑草を引っこ抜いてお世話している芋、その未熟なものを、盗ッ人……ああいや、おこぼれ頂戴。そう、おこぼれをね?ものは言いようだな。そうして我々は今日も芋を食って生きる。彼らの慈悲深いお目こぼしのために、もしくは我々が彼らの眼中にすら入っていないことのために。こう言い換えることも出来るだろう。もしかすると彼らにとって重要なのは「植える、育てる、収穫する」というプロセスであって、「収穫物」そのものではないのかもしれない。「植える、育てる、収穫する」という一連の流れを、より迅速に、より効率的に、よりファンタスティックにこなせればそれで良いのであって、その「収穫物」が一体どのような利益を彼らに生み出してくれるかとか、収穫までに何個だめになって何個盗まれたかとか、そういうことは二の次なのだ。植えよ、育てよ、収穫せよ。それに一体何の意味があるのかなんて聞くだけ無駄だ。たぶん、誰も本当の答えを知らないのだから。
社会的地位ってほぼ経済力の謂いでござるから
我々地底人は、地上人が食うことの出来る太った芋、すなわち快適さや利便性を追求して無事にゴールに至った完成品、その未熟な段階のものを享受する――未熟な試作品故に棄てられたものを必死に拾い集める行為も含め――ことが精一杯だ。その理由は単純明快言わずもがな、完成品を手に入れるだけの経済力、もっと言えばそれだけの経済力を手に入れるだけの地位・肩書き・経歴・能力が無いからである。多分きっと恐らく、未来永劫に渡って無いからである。広大な土地にiPhone12の種芋ならぬ種林檎、すなわち初代iPhoneSEを植えて、毎日せっせせっせとお世話をし、それが6、7、8、9、Ⅹ、11を経てiPhone12まで育ったら収穫しようと考えている地上人の畑から、未熟な赤ちゃん芋たるiPhone6を1つや2つくすねたところで、iPhoneは無限の畑から無数に収穫出来るので、地上人にとっては痛くも痒くもないだろう。無限から1を、しかも未熟な1を引いたところでそれは無限だから。そんな具合に、地上人の「植える、育てる、収穫する」という慌ただしくも涙ぐましい努力の姿、そんなものには目も呉れずに(だってこっちは地底にいるんだから分かりっこない)、今日も今日とて何かしらの「芋」が目の前に降りてくるのを、土遊びしながら待っているのである。
地上人は今日も苗を植える
自分の手の届かぬ遥か高みに住んでいる人たちが、毎日のように血の滲む苦労の末に素晴らしいものを作っちゃ(大衆に)投げ作っちゃ(大衆に)投げしている。そうして彼らが更に高みへ登っていく姿を、地底ぐらしの私は土に阻まれて一目拝むことすら出来ない。また、彼らが一生懸命育てている素晴らしいものを、同じ地上に立って旬の時期に皆で味わうことも出来ない。地底に潜み、旬はずれのものをコソ泥のようにくすねていくのが精一杯である。で、まあ、私が進んで地底から這い出そうとしない限り、ずっとこんな感じなのだろう。こちとら「型落ちした古いiPhoneを格安で手に入れる」ことには興味があるが、「最新型のiPhoneを手に入れる」こと、もっと言えば「iPhoneそれ自体」にもてんで興味が無いのじゃ。イヤホント、我ながら「技術の進歩」というものに対する礼儀がなっとらんと思うよ。植え、育て、収穫することに対する礼儀がね。地底人諸君、這い上がりたい人は是非這い上がってほしい。いつかまた地底に転がり落ちて来た時に、地上の様子がどうだったか教えてほしい。子守唄くらいにはしてやろう。