珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

普通に、「普通」についての覚書|「普通の人」がなかなか見つからない理由は「普通の人」がこの世に1人しかいないからですよ

わたし∩あなた

「普通」とは、多くの人が 経験的にぼんやりと・・・・・・・・・ 「自分はそこに到達し得ない」と考えている領域であり、同時に多くの人が 合理的にぼんやりと・・・・・・・・・ 「そこに到達し得ない人間はいない」と考えている領域の謂いである。この一見相反する2つの領域が奇跡的に重なっているそのわずかな部分を、我々は「普通」と呼んでいる。我々は日常生活の中で、「多くの人にとっては普通なのだろうが、自分にとっては普通ではない」と、「自分にとって普通なのだから、多くの人にとっても普通であるに違いない」を、状況に合わせて上手いこと切り替えながら暮らしている。この切り替えがあまりにも頻繁だと、「あの人ってば都合のいい時はああなのに都合が悪くなるとすぐこうなんだから」といった具合で自分本位な人間として周囲から非難されるわけであるが、人並みの理性や道徳があり、周囲との調和を意識できる程度の人間であれば、これらのコントロールに失敗して不調和を招くようなことはそうそう起こらないだろう。普通はね。

 

スケールがデカすぎる人間も考えものだな

そんなわけで、「普通」とは一見、多くの普遍的なものの中でも最も普遍的なもの、普遍の中の普遍、普遍の王様であるように思えるが、少なくとも普通に暮らしている一般ピープルの側からしてみれば、「自分にとって」という概念と切っても切り離せないものであり、実のところ全くの「個」なのである。物事を考えるときに逐一「この世における普通とは、すなわち自己の価値観を捨て去ったところの、世界市民にとっての普通とはなんぞや、そしてそれと自分の価値観とを照らし合わせた時に、自分の基準はそれよりも上位にあるか、下位にあるか」と考えるような人は、そうそういないだろう。一般ピープルにとっては、差し当たって自分の身近な範囲にあるものと照らし合わせていればそれで十分なのである。「俺はなんて貧乏なんだろう」と嘆いている最中に「世界にはもっと貧しい人がいるのだから俺は恵まれている方なんだ、綺麗な水が飲めるだけでも幸福なんだ、ワガママ言っちゃいけないんだ」と己を叱咤するのもたまには結構だが、毎回やってると身が持たないのでほどほどにしておこう。また、「期末テストでクラス1位を獲った」と喜んでいる人に、「でも世界の学生を基準に考えればあなたの知能なんてクソザコナメクジですよね」なんて余計なことを言う必要はないのだ。

 

裏表はないけど表に裏がついてる人間です

「普通」が相反する領域の重複箇所であることは、私のように気の利いた面白いコミュニケーションが出来ない人間が、八方美人や二枚舌でどうにかこうにか綱渡りしながら生きていくのに都合がいい。また、私のように確固たる信念を持たないフラフラ人間が、ある日に真面目がいちばんと言いつつほどほどに不真面目をしたり、別のある日には不真面目でナンボですよと言いつつほどほどに真面目をするなどして、結果的に「まあ、ぼちぼち」くらいの位置に収まりながら生きていくのにも都合がいい。「普通」はその曖昧さゆえに、わりかし使い勝手がいい。

 

たまにあるセンチメートルとメートルの誤植はふふっとなるので好き

「普通」とは、およそ同じところに留まることを知らない基準、わりかし好き勝手にこね回せる尺度である。それって本当に尺度なんですかね?もしも1cmがある時はこれくらいの長さである時にはあれくらいの長さだったりしたら、世の中めちゃくちゃになってしまう。一方で、そのへんの一般ピープルの「普通」というものがある時(人)にはこれくらいである時(人)にはあれくらいであったとしても、即座に世の中がめちゃくちゃになるようなことはない。世の中に対して影響力を持っている人は別として。それもそのはず、元々人間界はと言ったりと言ったりするような個体が一緒に暮らしている世界なので、今更ネズミをやかんと言ったりレモンをひつじと言ったりする個体が1人2人増えようが痛くも痒くもないのだ。世の中は寛容だなあ。

 

普通にまとめ

「普通」は実のところ普通の人が普通に考えているような普通ではないので、他人の「普通」に手を加えようとすると痛い目を見るし、手を加えなくても普通に痛い目を見るし、同様に自分の「普通」に固執してても痛い目を見るし、固執しなくても普通に痛い目を見る。「普通」は煮ても焼いても食えやしないし、あっては困るが無くても困るし、触らぬ「普通」にも祟りはある。空の彼方、大地の果てまで逃げようとも、「普通」はあなたの後ろを永久についてくる。最近(?)は「無意識のうちに」「いつの間にか」というニュアンスで「スマホ、家に忘れたと思ったけど普通にカバンの中にあったわ」とか言ったりもする。この場合の「普通」は「なんてことなかった、」とか「なぁんだ、」とも訳せるな。なんというかこう、「普通」という概念が、どんどん些細なものの側へと引っ張られているのかな。最近の流行りとして、「普通」は些細なものの側に寄っているのかな。「普通」はゴムのようにいくらでも伸びる。そして些細なものの側へ引っ張った分だけ、いつか手を離した時に、「普通」は重大なものの側へ勢いよく跳ね返っていく。

 

 

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