珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

余事象の海であっぷあっぷする覚書|「する」に短し「しない」に長し

数学を学んでおくと将来ブログを書くとき役に立つらしい

人生の進め方の基本はごく簡単である。「する」「しない」か。人の生涯は「する」と「しない」で構成されている。なるほど自分で言っといてなんだが単純明快で実に分かりやすいと思う。ここでは便宜上、人生が全事象Ω、「する」が事象A、「しない」が事象Aの余事象、とでもしておこうか(図1)。よくよく考えればそうはならんやろという気がしないでもないが、要するにあの図を使いたいだけなので勘弁してほしい。全事象を表す長方形の中に事象Aを表す円がぷかぷか浮いているあの図を。もちろん、「する」という事象Aこそ人生であるとして、「しない」という余事象のことをきれいさっぱり切り捨てたっていいのだが(図2)、私はこの余事象にこそ味わいがあると思うのだ。余事象ってなんか聞いたことあるけどなんだっけと思った方のために置いておきます。

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つまりこういうことだってばよ

図1

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図2

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どういうことだってばよ

 

神様なら手本を見せてくれますよね?

生き物にとって沢山のことをいっぺんにすることはそうそう出来るものではないが、反対に沢山のことをいっぺんにしないことは、朝飯の手をひねるカッパのよっちゃんくらい簡単なのである。料理をすることと読書をすることとサッカーをすることをいっぺんにやるのはまこと至難の技であるが、料理をしないことと読書をしないこととサッカーをしないことをいっぺんにやるのは驚く程簡単ではないか。料理をしないことと読書をしないこととサッカーをしないことを並行してやろうと思ったら、ただグースカ寝てみればよい。「睡眠をする=料理をしない=読書をしない=サッカーをしない」だが、その逆を取って「睡眠をしない=料理をする=読書をする=サッカーをする」とはいくまい。夢の中でもない限り。

 

そうよ私は「しない」の天才

現に、私は今この瞬間、膨大な数の行為をしていない。逆立ちをしていない。散歩をしていない。国語の問題を解いていない。階段を昇っていない。薪を割っていない。編み物をしていない。牛乳を飲んでいない。グラタンを食べていない。これら全てを列挙しようと思ったら、仏教特有の目眩がするほど途方もない数の概念を用いなければならないだろう。ふふん、何かを「しない」ことにかけては自信があるぞ。一方で、していることといえば、パソコン画面を眺めている。ブログを書いている。ベッドに腰掛けている。あとは呼吸とか瞬きとか。それくらいを挙げるだけで事足りる。ぐう、私の「する」を数えるんじゃない。私は「しない」の天才なんだ。ただそれだけでいいじゃないか。

 

志望校は母校にならなかったけどホームステイ先のマザーくらいにはなった(第一志望大学中退並感)

人間は、時間的にも可能性的にもほんのちょっぴりの生き物でしかない。他の生き物から見ればあまりにもたくさんすぎる生き物かもしれないけど。私としては、彼らのようにやるべきことが本能によってほぼほぼ定まっており、それをこなすことに生涯を費やすような生き物の方が、選択肢が多すぎる故にあっちへフラフラこっちへフラフラしている人間よりもクールでスタイリッシュだなと思う。生き方の選択肢は、10もあれば十分じゃあないか。それがまあ、こんなにたくさん。例えば志望大学を書いて提出するとき、もし自分が住んでいる地域だけで100万も200万も大学があったら大変でしょう。大学の案内書を100校ぶんくらい眺めた辺りでうんざりして、「よし、残りのパンフレットは全て燃やして今見た100校の中から志望校を決めよう」ってなると思うんだ。もしかすると目を通さなかった99万余の大学の中に、自分に最も相応しい大学があったかもしれない。けれども目を通した100校の中にも良さげな大学はいっぱいあるわけで、その中から第一志望を選んだって全然いいと思うんだ。だいいち、大学のパンフレットを100万冊も読んでいたらそれだけで高校生活が終わってしまう。それと同じで、己の前に用意された「する」という選択肢全てに目を通していたら、それだけで人生が終わってしまうのだ。だから、人は見向きもせずにいっぱいいっぱい切り捨てる。そして全てが片付いたあとで、ゴミ箱の中をじっと覗き込む。

 

「する」だけを私の棺に入れてくれ 無数の「しない」で墓が溢れる

人の生がせつない理由――そんなものが在るとすれば――、それは我々が常に何かを「する」生き物でありながら、その一方で常に「しない」に向かって思いを馳せていることのうちにもあるだろう。人は米を食いながらでもパンに向かってひしと思いを馳せることが出来る生き物だもの。まあ、色々な餌を前にして集中力が切れているハムスターなんかも似たようなことをするがね。己があるひとつの「する」に向かって意識を集中させている(と少なくとも本人は思っている)ときでさえ、無意識はそれ以外の「しない」の方へと絶えず気を散らしていないか。何かをしていながらも、頭に浮かぶのは「しない」のことばかり。「する」という山を盛り上げながら、「しない」という海を圧し広げている。果てしない海の上に歪な山がひとつ。山の上から山の全貌は見えやしない。どこまでも広がる海が見えるだけだ。

 

きつね派です

こんなことを書き散らしていたら、赤いきつねに粉末スープを入れ忘れていた。飢えた舌で麺と汁を勢いよく吸い込んだら小麦粉とお湯だった。ゴミ箱から粉末スープの袋を急ぎ回収してサッサとかけた。うむ。旨い。それにしても、どうして4分前の私は粉末スープを入れるということをしなかったのだろう?もしも粉末スープの袋が風に煽られてベランダから飛んで行きでもしたらどうするつもりだったのだろう?「しない」じゃ腹は膨れぬのだ。ただ心が膨れるばかり。

 

 

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