珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

おうち時間、ではなく家にいる時間についての覚書|別に何もしてないしどうも過ごしてないんだよなあ

「おうち時間」だ!逃げろ!

個人的にはこの「おうち時間」という言葉がどうにも気に食わない。「迂闊に外で遊べないから仕方なくおうちの中で出来そうなことをしましょう」という至極真っ当な呼びかけの下から、「おうちの中にいるときも何かをしましょう」というおぞましきニュアンスが這い出てくるのを感じる。こいつはいずれ「おうちの中にいるときであっても何か意味のある行いをしなければなりません」という怪物へと成長するであろう。怖。その怪物は全ての疲れた人に食らいつく。全ての疲れた人を食い尽くしたあとは、己の尻尾をガブリと噛んで、痛みに悶え苦しみながら、全ての己を食い尽くす。

 

意識低からんことを

上に書いた妄想の怪物に対し、インドア過激派のいち構成員としてひとつ言わせてもらうが、おうちの中というのは元々、意味のない行いをすることがほぼ無際限に許される夢の国だったのだ。おうちの中であなたが無意識にやってるあんな意味のないことこんな意味のないこと、それっておうちの中でしか出来ないことではなくって?生産性、有意義、建設的、そんなものは丸めてゴミ箱にでも捨ててしまえ。ここは意味のない行いの国だ。意味のある行いをしたいのならよその国に行きな。ああいや、よその国に行けないから世の中がこうなってるんでしたね。ハァー。初めのうちは「おうちの中でも出来ること探そう」だった世の中の流れが、「おうちの中でも自己啓発!筋トレ!自分磨き!筋トレ!自己研鑽!筋トレ!エビデンス!イニシアチブ!コミットメント!ソリューション!筋トレ!」に向かわないように祈るばかりである。

 

おまえじゃねぇすわってろ

とはいえ、「おうち時間」というワード自体はなかなか秀逸だと思う。「おうち」という言葉の和やかさ、温かみ、平和な感じ。その空間の中で過ごす時間。その空間の中で 何かをして・・・・・ 過ごす時間。この「何かをして・・・・・ 」というのが「おうち時間」というワードの肝であり、私にとってはまこと余計な一言なのである。であるからして、私は敢えて「おうち時間」というナウい言葉を使わずに、「家にいる時間」などと堅苦しく面白みのない表現をしてやろうと思う。だってほら、「家にいる時間」と「おうち時間」では我々に課されるものがまるで違うではないか。私は「家にいる時間」をこよなく愛しているのであって、「おうち時間」を愛しているのではない。「家にいる時間」はただ家にいるそれだけの時間であり、なんかをしてもよいのだが、なーんにもしなくたってよい。一方で「おうち時間」は、実質、おうちでなんかしている時間の謂いである。

 

私はただ家にいるだけです

私にとって自室は聖域である。意味のない行いを存分に披露出来る私だけのステージである。私のように元々休日でもロクにおうちから出ないようなタイプの人間が、「おうち時間」というワードに圧迫されていくのは心底哀れだと思う。おうちで何をしているかって?なーんにもしてないんだな、これが。おうちにいるからって、何かをしなきゃいけないわけじゃないんだ。何もしなくたっていいんだ。私は「おうち時間」がやりたくてここにいるんじゃないの。ただただ「家にいる」ためにここにいるの。

 

今週のお題「おうち時間2021」
 
 

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