部分についての覚書|死なば全体[もろ]とも
耳ヒュン
耳かきしている最中に豪快なしゃっくりが出て危うく鼓膜と心臓が破れるところだった。あぶねえあぶねえ。心臓ならともかく、鼓膜という大事な大事なものをまだ破り捨てるわけにはいかない。そう、心臓ならともかくね。場合によっては、全体が破損するよりも部分が破損することの方が却って恐ろしいのではなかろうか。全てのキーが反応しなくなったキーボードよりも、ほんの一部のキー、それもエンターとかバックスペースなどの使用頻度の高いキーだけがピンポイントで壊れたキーボードの方が、却ってやるせなさを感じるのではなかろうか。全体のために全体を負担するのはいい。部分のために全体を負担させられるのはどうにも堪らない。これはもう、全体よりも部分の方が遥かにエライってことだな。
鼻で読んだ文章を耳からこぼすような読書をしている
いつだったか、全体と部分に関する論考が載っている哲学書を読んだ記憶がぼんやりとある。ええと……あれは確か「全体Aを構成しているある部分aに含まれている要素αが全体Aに含まれてないわけがないだろ!いい加減にしろ!」みたいな内容だったと思う。 例えば、私(全体A)を構成している右手(部分a)に含まれている右人差し指(要素α)について、「右人差し指は私の右手には含まれているが、私には含まれていない」なんてことがあってたまるか、という話である。一体なんだったかなあ?この極めて単純な内容からして、古代哲学だったような気がしないでもないし、ソクラテス先生辺りがめちゃくちゃ言いそうな気もするのだが。
いいなあ……
まあそれはおいおい探すとして、折角なのでこの例え話を転用しよう。私が最初の段落で言った「全体よりも部分の方が遥かにエライ」。この理論でいくと、私の右手よりも私の人差し指の方が遥かにエライことになるし、私よりも私の右手の方が遥かにエライことになる。ウーン?エライという言い方がよくないのだろう。「つよい」とでもしてみようか。私の右手よりも私の人差し指の方が遥かにつよいし、私よりも私の右手の方が遥かにつよい。何故なら、右人差し指の破損は右手に絶望を与えるのに十分な力を持っているし、右手の破損は私に絶望を与えるのに十分な力を持っているからである。一方で、右手の破損は右人差し指に絶望を与え得ないし、私の破損は右手に絶望を与え得ない。何故なら、右手が破損したとき既に右人差し指は事切れており、私が破損したとき既に右手は事切れているからである。死人に絶望なし。
大黒柱がネズミに齧られていることよりも客間の障子に小さな穴が開いていることを毎日気にしているような人は多い
どっこい、この関係をどんどん押し進めていくと、指先の皮を構成しているタンパク質は指先の皮より遥かにつよい、ということになる。そこまではいい。もしも私が指先の皮だったら、タンパク質の破損は絶望に直結するだろうし。だが、私の指先の皮のちょっぴりを構成しているタンパク質が破損したからといって、最終的な全体である私が絶望するかというと……そ、そんなことあるかあ?私のガバガバ理論が行き届く範囲は親(全体)―子(部分)関係までで、親(全体)―孫(部分の部分)から先は完全に保証の対象外である。逆に言えば、気がかりな全体Aの直下に属する部分aを熱心に監視する限りにおいて、それは保証の対象である。これからは私も、直属の部分aに大半のリソースを割きながらやっていこうと思う。人間、部分の部分や部分の部分の部分にまで気を配れるほど器用な生き物じゃないはずだ。孫見て子を見ず、ひ孫見て孫を見ず、結果として一族全滅なんてこと地球上では日常茶飯事じゃないか。全体―部分という親子関係においては、親が子を庇護する一方、子はそれに対してせいいっぱいの絶望で報いる力を持っている。ウーン、儒教辺りから苦情が来そうだなあ。
上げて、落とす
「命あっての物種」とか「身ありての奉公」とかいうが、「命があってよかったね」という言葉はそんなに綺麗なものじゃないと思う。この言葉には後半が欠けている。「命があってよかったね、他には何もないけど」である。全体は残っている。全体しか残ってない。部分よ部分、どうか帰ってきておくれ。部分は死んで、既に絶望を感じない身となった。全体は生きて、既に絶望しか感じない身となったんだ。やいやい、言葉の半分を覆い隠して綺麗なところだけ見せようったってそうはいかないぞ。私は知ってるんだからな。