珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ピーマンを克服する方法ならびに人類が滅びたあとで会社に無事届けられる書類についての覚書|それでも佐川急便ならやってくれる

言葉にできない

脳内で人間を罵るのに適切な用語が見つからなくなった。どんな言葉を使ってもその言葉の元々の対象に失礼だと思い始めた。人間界でなにかを罵るのに使われる用語といえば、バカとかアホのような「そもそもなにかを悪く言うために使われる言葉」の他に、ごみとかうんこのような「価値が低いと思われるもの、汚らしいものを示す言葉」、ゴキブリとかミジンコのような「人にとって害となる生き物、人と比べてあまりにも矮小な生き物を示す言葉」が定番である。最初のやつは基本的に人間用なのでひとまず置いとくとして、あとの2つのうちいかなる言葉を選ぼうとも最終的に「いやでも人間よりマシやな」で終わるのである。最初のやつにしても、バカそのものとバカな人間だったら前者の方が断然マシだなと思っている。それにおバカな生き物とかちょっとかわいいでしょ。あっもちろん人間ちゃんは別ですよ。ハァ~、なんて最低で低俗で高尚な悩みなんだろう。この話題そのものがあまりに最低で低俗で高尚すぎるので、この話はここでやめにします。

 

ピーマンだって嫌な顔して無理に食べようとされるより放っておかれる方が気分がいいと思う

ここにピーマンが嫌いな人間がいるとする。彼がピーマンとの関係を改めるためにできることといえばそう多くはない。そのやり方としてすぐに思いつくものは、まずピーマンを品種改良して自分好みの野菜に変えてしまうか、ピーマンをあの手この手でひたすら食べまくって慣れることにより己の経験から変えていくか、ピーマンの持つ歴史や栄養価や役割などを学んでピーマンについてのポジティブな知識を取り入れることにより己の認識から変えていくか、もしくは今後金輪際ピーマンと関わらないようにすることである。たぶん、はじめの手法の方がより難しく、あとになるほど簡単だと思う。たぶん。

 

人間臭い部分を脱ぎ捨てただけ人は恐ろしくなれる

相手の中に入り込んで相手そのものを変えるか、相手と接しまくって直接認識を変えるか、相手と接することなく間接的に認識を変えるか、相手の存在そのものを自分の中からきっぱり消してしまうか。距離が近くなるほど難しく、距離が離れるほどやさしい。好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。好きになることは難しく、無関心でいることはやさしい。様々なものがおびただしく存在するこの世界で、なにもかもを好きになることは、なにもかもに対して無関心でいるよりもずっと難しい。極端な博愛主義者がときに恐ろしく見えるのは、きっとこのせいだろう。

 

まーたこのブログは神様をおもちゃにする

真になにもかもを愛せるのは神だけだと思う。一方で、真になにもかもに無関心でいられるのは人間だけだと思う。動物には、己の生命を維持するとか、種を繋げるとか、そういうことがあらかじめインプットされているから、それらのことに無関心ではいられない。でも人間は、やろうと思えば驚くほど簡単に己の生命に無関心になれるし、人間という種にも無関心になれるのだ。それ以外の瑣末なことに関しては言わずもがな。ああでも待てよ、神は万能だから、なにもかもに無関心でいることもできるだろう。できなければならないだろう。その瞬間、神は人間のところまで落ちてくるのかな?

 

人は人を愛さずして人が作った会社というものを愛することができるので

当然、我々が現代社会に生きていながらなにもかもに無関心でいることはそう簡単ではない。己の生命には全くの無関心でありながら、ペットの食事や明日提出する書類や今日の天気のことには並々ならぬ関心を寄せているなど、我々人間にはありがちなことだからだ。逆に言えば、やはり我々も動物同様、なにかに関心を寄せていなければ生きていけない生き物なのだろう。決定的に違うところは、己の生命や種の保存といった大事を、それほど優先順位の高いところに置いておかなくても大丈夫という点くらいだろうか。たとえこのあとすぐ自分の命がなくなっても、たとえこのあとすぐ人間という種が滅びても、なんらかの手段で会議に必要な書類が会社に届きさえすればそれでよい、なんて社畜はそうそういないかもしれないが、そういう考えができる生き物は、やろうと思えばそういうことができる生き物は、人間くらいなんじゃないかな。

 

 

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