珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

変わった人間共が全然変わってない覚書|2500年振りに会った友人から全然変わってないねって言われるのもそれはそれで

ここはひとつ神になったつもりで

実際口に出して言うにしろ、私の頭の中に留めておくだけにしろ、文章にして公開するにしろ、メモに書き付けておくだけにしろ、私はなにかにつけて「人はつい200年前まで……」とか「人はほんの1000年前まで……」とか「人はたった1万年前まで……」という言い回しをついついしてしまうんだけど、そうなると必然、お前は200年前とか1000年前とか1万年前の人間の一体何を知ってるんだって話になってくるんだよな。で、私が200年前とか1000年前とか1万年前の人間について知ってることを挙げてみろと言われても、ウン、ないんだな、それが。ははあ、ほーん、なるほどですね……ってないのかよ。仮に私が歴史学や生物学に明るい人間だったなら、そういう言い回しの1つや2つ、大目に見てもらえただろう。だがもちろんそんなことはない。じゃあ一体なんだってんだ。なんでもないってんだ。

shirokuro-044.hatenablog.jp

この記事に至っては、人が石と石で火を起こしていた頃を指して「ついこないだ」なんて言い回しをしている。私ごときが石と石で火を起こしていた頃の人間の何を知ってるというのだろう。

 

形状記憶人間

昔の人間のことはおろか、最近の人間のことすらもさっぱり分からんけれど、人間自体はそんなに変わってないんだろうなってことだけはなんとなく分かる。昔の本とか読んでても、「あーいるいるこんなやつ」って人間が大勢登場するもんで、そこが人間の面白さでもあり、つまらなさでもあり、ささやかな喜びでもあり、大きな落胆でもあり、可能性でもあり、限界でもあるなあと思いました。言いたいことはあらかた言い終わってこれ以上書くことがなくなったので、手元に有る古代~近代の名著より「あー現代にもいるいるこんなやつ」の引用で誤魔化して終わることにします。

 

アリスティッポス[紀元前435~355]

シシリーの有力者ヒケタスが、「君は彼女に大金をつぎ込んでいるが、彼女の方はそれをディオゲネスという犬にやっていちゃついているではないか」ととがめると、アリスティッポスは答えた。「俺が彼女にしこたま貢いでいるのは、俺が彼女を楽しむためで、他人が楽しむ邪魔をするためではないのだ」。

アテナイオス『食卓の賢人たち』柳沼重剛編訳,1992,岩波書店

歌舞伎町かな?

 

●多くの人々[紀元前5世紀?]

医者のピロニデス(不明)は『香油と花冠』の中でこう言っている、ディオニュソスが葡萄をエリュトラ海からギリシアへもたらして以来、多くの人々がそれを適量も考えずに楽しむことに走り、しかも水で割らずに飲んだ。その結果ある人々は常軌を逸し正気を失い、ある人々は気を失って屍のようになる始末だった。

同上

歌舞伎町かな?

 

●ものぐさな心の人たち[紀元前5世紀]

ものぐさな心の人たちは、ひとりで道を歩くようなとき、よく自分だけの空想に耽ってはみずから楽しむものだが、ちょうどあれと同じような具合にね。

プラトン『国家』上 藤沢令夫訳,1979,岩波書店

空想に耽りながらひとりで道を歩くのは娯楽として非常にコスパがいいから私も好きだよ。だれがものぐさな心の人やねん。それにしたって人類2500年分の空想ってデータ量すごそう。こんなつまらないものの保管のために、世界が神様からどれほどのデータ容量を追加購入してきたか、あるいは今も購入し続けているかなんて、考えたくもないね。

 

アテナイティーモーン的、かつ非ティーモーン的な人[5世紀]

それどころか、もし誰か、人間の交わりを避け憎むほど苛烈で人間離れした性格の者がいても、アテナイティーモーンとかいうのがそんなであったと聞いているが、それでも、胸の中の苦い思いの毒を吐き出す相手を探さずには耐えられぬはずだ。

キケロー『友情について』中務哲郎訳,2004,岩波書店

人間はほんとろくでもねえ生き物だなって気持ちを真に分かってくれる生き物もまた人間しかいないものな。

 

ライプニッツ[1646~1716]

巧妙な議論家のライプニツは自分の相手が退却の路筋を隠してゐるのに感附いて、意地惡くもその方へ相手を推遣つて喜んでゐた。

ライプニッツ形而上学叙説』河野与一訳,1950,岩波書店

こわい

 

●度を外れた策士、注釈家[17世紀] ライプニッツ[1646~1716]

それであるから、この點に於て〔神のことを考へる場合には〕人は、度を外れた策士が君主の意圖の中に有りもしない策略を考へ過ぎたり、註釋家がその研究してゐる著者に、その人が持ちもしない學識を見出さうとしたりするやうな失策をすることは決してなく、神の無限な智慧にはいくら多くの熟慮が有ると考へても考へ過ぎることはないし、人がたゞ肯定ばかりして行つて、神の意圖を制限するやうな否定命題をここで控へさへすれば、どんな事柄に於ても誤りはしまいかと惧れるに及ばない。

同上

川の水が入った甕から極上の酒を取り出そうとするような人、いますね。在りもしない真実を取り出した気になって更にそれを公にして満足している人、いますね。「この時の作者の気持ちを答えよ」とかも、概ねそうですね。

 

●一般読者[19世紀] ショーペンハウアー[1788~1860]

けれども一般読者の素材に向ける関心は、形式に向ける関心よりはるかに強く、彼らの教養の発達がおくれるのも実はそのためである。もっとも滑稽なのは、詩人の作品に接しながらこのような傾向を明らかに示すことで、作品を生み出すきっかけとなった実際の出来事や、詩人の私的環境を探り、さらにすすんでついには作品そのものよりも、そういうことにより強い興味を見せ、ゲーテの作品ではなくむしろゲーテについてそういう類のことを記した文献を通読し、作品『ファウスト』よりもファウスト伝説について熱をいれて研究するというのがもっぱら彼らの仕事になるのである。

ショーペンハウアー『読書について』斎藤忍随訳,2016,岩波書店

どうして人間はそんなに人間のことが好きなの?

 

●「作家」たち[3世紀]

プラトンの若いころについて、他にもいろいろの話を語れないではないが、やはり同じ事情が当てはまる。それが書かれたのは、「作家」たちが過去の著名人についてのごくつまらないゴシップを記録することを好んだ時期だったのである。

R.S.ブラック『プラトン入門』内山勝利訳,1992,岩波書店

人間は人間のつまらない部分が本当に好きですよね

 

福沢諭吉[1835~1901]

あるとき兄が私に問を掛けて「お前はこれから先、何になる積りか」と言うから、私が答えて「左様さ、まず日本一の大金持になって思うさま金を使うてみようと思います」と言うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が反問して「兄さんは如何なさる」と尋ねると、真面目に「死に至るまで孝悌忠信」とただ一言で、私は「ヘーイ」と言ったきりそのままになったことがあるが、まず兄はソンナ人物で、また妙なところもある。

福沢諭吉福翁自伝』富田正文校訂,1978,岩波書店

「ヘーイ」と応えてその返事はなんだと咎められたらこれはかの福沢諭吉も使っていた由緒正しき返事でござると返そう。ヘーイ。

 

●碁将棋を嗜む人々[19世紀] 正岡子規[1867~1902]

平生は誠に温順で君子と言はれるやうな人が、碁将棋となるとイヤに人をいぢめるやうな汚い手をやつて喜んで居る。さうかと思ふと、平生は泥棒でも詐欺でもしさうな奴が、碁将棋盤に向くとまるで人が変つてしまふて、君子かと思ふやうな事をやる。

正岡子規『病牀六尺』1927,岩波書店

現代のネットゲーマーもたまにそういうとこある

 

 

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