珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ある民家の上にあるみかんについての覚書|7つ集めると願いを叶えてもらえそうな色と形をしている

※いつもの時間に予約投稿したつもりでできてなかったガバ

かわいい(こなみかん)

いつも通る道沿いに民家のあるみかんがある。違う。みかんのある民家がある。塀と家の外壁との間のごく僅かなスペースにみかんの木がミッチリ挟まった民家がある。みかんの木はそりゃもうミッチリ挟まっているので、ときどき塀に面した細い歩道にみかんが落ちている。先日その民家の前を通ったら、みかんが塀の上にひとつ置いてあった。まだ新しい、皮がピンと張ったつやつやのみかんである。数日後にその民家の前を通ったら、みかんが塀の上にふたつ置いてあった。その翌日にその民家の前を通ったら、みかんが塀の上にみっつ置いてあった。増えるみかん。ふふ。

追記:よっつになってた ふふ

 

教育、納税、勤労、みかん

ちょっぴり考えるに、ある日民家の近くを歩いていた人が歩道に落ちているみかんを拾い、みかんの木があるしどうやらこのお宅のみかんらしいということで、とりあえず塀の上に置いていったのだろう。実際、あんな立派なみかんが狭い歩道の真ん中に落ちてたらびっくりして「どこかにみかん置かなきゃ(義務感)」って思いますよ。で、数日後に民家の近くを歩いていた別の人が歩道に落ちているみかんを拾って、さあどうしたものかと辺りを見回すと、オヤ塀の上にみかんが置いてあるではないかということで、その隣に置いていったのだろう。で、翌日に民家の近くを歩いていた別の人が歩道に落ちているみかんを拾って、さあどうしたものかと辺りを見回すと、オヤオヤ塀の上にみかんがふたつも置いてあるではないかということで、その更に隣に置いていったのだろう。自分が道でみかんを拾って、目の前にはみかんの木を擁する民家があり、その塀の上には既にみかんが置いてあったとしたら、やっぱり隣に置かなきゃって気がしますよね。ふたつめ、みっつめのみかんを拾った人が「みかんの隣にみかん置かなきゃ(義務感)」などと考えていたかどうかは定かではないが、こうして塀の上のみかんは増えていくのであった。

 

フードコートの食器返却口に前の人の食器が置いてあると自分も安心してそこに食器を置けるでしょ そんな感じ

塀の上に並んだみかんの数が増えれば増えるほど、通りかかった人間が「みかん置かなきゃ(義務感)」と考える度合いも増していくだろう。何故かというに、塀の上には既にみかんが置いてあるからである。既に置いてあるみかんの数がひとつ、ふたつ、みっつと増えれば増えるだけ、後に続く人は安心してそこにみかんを置くことが出来るのである。さすがに100個も200個も置いてあったら却っておっかないですけど。塀の上には既に先駆者の手によってみかんが置いてあるのだから、自分が今しがた拾ったみかんをそこに置いていっても、自分ひとりがみかん陳列罪で責められる心配はないはずだ。「みんながそこに置いてるから自分も置いたんだ」と主張すればいい。仮に1個目のみかんを拾った人の思考を「ウーン、とりあえず塀の上に置いてもいいかな?」とするならば、11個目のみかんを拾う人の思考は「なるほど、ここに 置かなきゃいけない・・・・・・・・・ んだな」程度には義務へと近づいていることだろう。もし10個もみかんが並んでいたら、そこは最早ただの塀ではなく、れっきとしたみかん置き場である。

 

人間があまりにも千差万別な理由

最初にみかんを塀の上に置いた人は、クソデカ袈裟な言い方をすれば勇気ある人である。だって、誰に倣うでもなくいちばん初めに置いたのだから。みかん置き場と化す前の、ただの塀だった頃の塀の上に、みかんを初めて置いたのだから。それを家主が快く思うかどうかは別として。始まりあるところに勇気ありだ。予めそう始めるように設計された機械が自らの設計に従ってそう始めるような、ああいうやり方は人間にはなかなか真似出来ない。人間は何事についても予めそう始めるように設計されていない場合がほとんどだからである。みかんには寿命があるしいずれ気づいた家主が回収するかもしれないし、いつまでもああして座っていられるわけではなかろうが、さて、最終的にいくつまで増えるのだろう。人の手でされるがままにおとなしく並んでいるみかんは殊勝でもあり、健気でもあり、滑稽でもある。

 

嫌いなものから学んだことはなかなか忘れにくい

実を言うと私は小さい頃から甘いみかんが大の苦手で、どのくらい苦手かというと、そりゃあもう、子供の私が泣きながら吐き出すくらい。だがその一方で酸っぱいみかん(というか柑橘類)はめっぽう好物だったために、我が家のみかん事情は非常に複雑であった。小さい頃に親が「これぜんぜん甘くないみかん!これならアンタも食べられるから!本当だって!大丈夫だから食べてみなさいって!」と言って差し出してくるみかんがことごとく甘かったものだから私は立派なみかん不信に陥り、自分の舌で味わい判断するまで他人のみかん評はいっさい信じないと心に決めた。同時に、たとえ実の親であっても他人という生き物とはこれほどまでに感覚が違うものなのかと愕然とした。人生で大切なことは大体甘いみかんが教えてくれた。大人になった今は辛うじて飲み込むくらいはできるが、もしも世間がそれを許してくれさえすれば私は今でも泣きながら吐き出すと思う。しかしながら、やはりこの時期には人からみかんの差し入れをもらうこともある。「すっごく甘くておいしいみかん」とのお墨付きを併せてもらう。なるほどですね。すっごく甘くておいしいみかん。なるほどですね。横流しする相手もいないので、とりあえず机の上に置いておく。数日経過する。少し悪くなってくる。「少し悪くなってきたから」という免罪符が我が家に届く。気づけばみかんは免罪符と共に姿を消している。ウーン。世の中には不思議なこともあるもんだなあ。

 

 

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