言葉のストックを増やす試みについての覚書2|キェルケゴール『死に至る病』より~その2~
前回の続き。一応本の最後までたどり着いたのだが、分かったことと言えば、さっさと眠りたい時には本書を開けばいいということくらいである。前半は絶望について、後半は罪について。特に後半、こういった具合に論へ特定の宗教観が加わってくると、その宗教を信仰あるいは研究していない人間にとっては理解が非常に難しくなる。学生時代は朝礼で毎朝祈りを唱えていたし、宗教の授業もあって聖書も持っていた。しかし今思い返そうとしても面白いほど思い返せるものがなく、宗教担当の教師(元ヤン)にはただただ申し訳ない限りである。
こちらが前回の記事。
なお、前回は引用のほとんどを三省堂『大辞林 第三版』から行った。こちらは一般的な用語に関しては簡潔で分かりやすい反面、概念や固有名詞、専門用語などに関しては簡潔すぎて分からない部分があるので、適宜色々な辞書から引用していくことにする。
ドグマ(dogma)
ギリシア語では元来公的機関の政治的決定もしくは命令を意味し,さらに哲学上の諸学派の学説をもさした。教義,教説などと訳され,固定された堅固な信条をいう。したがってときには柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味でいわれる。基本的には一つの団体なり流派なりに固有の信念であって,ドグマを認めるか否かが正統と異端とを分つ。哲学説についていうときはほとんどあしき意味である。一般にはキリスト教の教義をさし,それは啓示の意味を人語によって明確にし,公会議などが啓示真理であると宣言したものであり,全信徒を拘束する。その権威は第1に聖書に基づくが,教義決定機関としての公会議と教会 (およびその首長) の性格をめぐっての考えの相違に応じて,カトリック,ギリシア正教,プロテスタントではドグマの評価も異なる。共通して認められているドグマは三位一体と,キリストの位格 (ペルソナ) についての教理である。なお,カント哲学ではドグマはマテマ Mathēmaに対立し,概念からの直接的総合的命題をいう。
ブリタニカ・ジャパン『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
堅固な信条、ひいては独断。ウン。そういうアレだね。分かるよ。
イロニー(irony)
1 皮肉。あてこすり。
2 反語。逆説。
3 修辞学で、反語法。
4 ソクラテスの問答法。無知を装いながら、知者を自認する相手と問答を重ね、かえって相手が無知であることをあらわにし、その知識が見せかけのものでしかなかったことを悟らせる。
4!!!4!!!「基本的な質問で恐縮ですが」「素人質問で恐縮ですが」「私の知識不足でしたら恐縮ですが」ってやつだ!!!グエーッ!!!やめろ!!!やめろ!!!グエーッ!!!報告会や学会にはソクラテスがたくさんいる。初代ポケモン2番どうろのポッポやコラッタ並に野生のソクラテスが飛び出してくる。スピーダーで素早さを上げて先手を取れるようにしておこう。あるいは、確実に逃げられるように。
恣意的(しいてき)
( 形動 )その時々の思いつきで物事を判断するさま。 「 -な解釈」
この言葉を伴う動きの主体になるような人って、他人を踏んづけて人生うまくやってる人だから、困ったものですね。こちとら踏んづけられる他人すら身近に居ないというのに。とはいえ、「恣意的な」行動を取る上位者たちを非難的な目で見る我々とて、結局のところ、そんな上手に判断出来るわけではないので、歯痒いものだ。なんだかんだでみんな、思いつきで物事を判断したりしている。
概念(がいねん)
①ある事物の概括的で大まかな意味内容。
② 〘哲〙 〔英 concept; ドイツ Begriff〕 事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現(名辞)の意味内容。 ㋐ 形式論理学では、個々の事物の抽象によって把握される一般的性質を指し、内包(意味内容)と外延(事物の集合)から構成される。 ㋑ 経験論・心理学では、経験されたさまざまな観念内容を抽象化して概括する表象。 ㋒ 合理論・観念論では、人間の経験から独立した概念(先天的概念・イデアなど)の存在を認め、これによって初めて個別的経験も成り立つとする。 〔西周にしあまね「致知啓蒙」(1874年)にドイツ語 Begriff の訳語として載る〕
概念の話はやめよう。概念の概念とか考え始めたら破滅しか待ってない。概念とはつまり、「こう」であり、「そう」であり、「ああ」であるものである。そういう「概念の概念」とか「意味の意味」とか「定義の定義」とか、自己を内包しつつ自己そのもので有り続けられる言葉って好き。
相(そう)
① 外に現れた姿・形・ありさま。外見。 「悪鬼の-で襲いかかる」
② 吉凶などの現れた、姿・形・ありさま。 「女難の-がある」
③ ㋐ 動詞の表す動作を、その動作が時とともに展開してゆく過程においてとらえたときのさまざまなあり方、およびそれを表現する組織的な文法形式。「書いている」は動作が継続していることを、「書いてしまう」は動作が完了していることを表すなど、動詞と「ている」「てしまう」「てある」などとが結合した形式によって表される。アスペクト。態。 ㋑ 「態② ㋐ 」に同じ。
④ 様子・ありさまを表す語の総称。形容詞・形容動詞・副詞の類。相言。
⑤ 〘物〙 〔phase〕 物質系の中で、状態が均一でかつ明確な境界をもち、他と区別される領域。気体・液体・固体の相をそれぞれ気相・液相・固相という。
そう……
形而上学(けいじじょうがく)
① 存在者を存在者たらしめている超越的な原理、さらには神・世界・霊魂などを研究対象とする学問。第一哲学。
② 客観的実在やその認識の可能を端的に認める哲学的立場。不可知論や実証主義の立場から独断論や実在論を称した語。
③ 事実を離れて抽象的なものにだけとどまる議論を揶揄やゆしていう語。
④ 書名(別項参照)。
学問の定義からしてよく分からないという時点でこの世で最もよく分からない学問だと思う。難しい本を読んでいるとかなりの確率で出てくる言葉なのでぼんやりとでも知っておいて損はないだろう。学問の定義がよく分からない学問のよく分からない議題についてよく分からない論文を読み上げながら議論している人たちはよく分からない。生きている人間が最も怖いっていうのは、この辺りも含めてていいと思う。
汎神論(はんしんろん)
いっさいのものは神であり,神と世界とは一つであるという哲学説をいい,二つの型がある。(1)神のみが実在的であり,世界は神の表現または流出の総体にすぎず,それ自体としては実在性をもたないとするもので,無世界論につながる。(2)世界のみが実在的であって,神は存在するものの総体にすぎないとするもの。自然主義的または唯物論的汎神論と呼ばれ,無神論につながる。また,以上のような哲学説とは別に,自然を生きた統一として表象し崇敬する文学的態度も汎神論といわれる。
平凡社『世界大百科事典 第2版』
神様ってどこから来たんだろう。
思弁(しべん)
( 名 ) スル ① よく考えてものの道理をわきまえること。 ② 〘哲〙 〔ギリシャ theōria; ラテン speculatio〕 実践や経験を介さないで、純粋な思惟・理性のみによって事物の真相に到達しようとすること。理論。観想。実践や経験を重んじる立場からは、抽象的理論・空論の意となる。
素晴らしい人の理性はどこまでも素晴らしいけれど、そうでない人の理性はどこまでもそうではない。以前「人が理性を失っている間、理性はどこかへ旅に出ている」という記事を書いたが、ほんとうにアレな人場合は、多分旅に出た理性も居酒屋で呑んだくれたりしている。なので酔っ払って大騒ぎした翌朝、帰ってきた理性もベロベロだし、本人も二日酔いだし、そういうのを繰り返しているうちに量的には変わらなくても質的に磨り減っていくのだろう。ただ、そういう「アホな理性」の方がかえって事物の真相に到達出来そうだなあと思う事がある。だって素晴らしい理性を持った人が素晴らしい理性をめいっぱい働かせても、事物の真相に到達できないんだから。
ドケティズム(docetism)
初期キリスト教会におけるキリスト論に関する異端的傾向の一つ。物質を悪とする立場からイエス・キリストが真正の肉体を有していたことやその真の受難を否定し,これらはすべて見せかけだけのものであるとした。1世紀にすでにこの傾向が存在していたことは新約聖書から知られるが (ヨハネ1,2書,コロサイ書) ,2世紀になってグノーシス派のなかで盛んとなった。ケリントス,セラピオンらがその代表者といわれる。仮現説,キリスト仮現説ともいわれる。表記の由来はギリシア語の dokein (現れる) からきている。
ブリタニカ・ジャパン『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
子供の頃、多分6、7歳位の頃だったと思うけど、親からクリスマスプレゼントにクリスチャン・ラッセンの絵本と、イエス・キリストについての絵本を貰った。うちの親は世間で言われるような「教育熱心な」タイプではなかったが、まだ3歳とかそこらのうちからたくさんの絵本を与えてくれた。木箱3箱分はあった。そして私は何故かそれらの絵本よりも、「保護者に向けた絵本手引書」の方が好きだった。話を戻して、当時の私に、イエス・キリストの話は難しかったと思う。それに、血まみれのイエスがでっかい十字架を引きずりながら歩いている挿絵はとても怖かった。罪人と一緒に磔にされているイエスの両手に釘が刺してあってそこから血がだらだら流れている場面も怖かった。一応言っておくと、私がキリスト教系の学校に通っていたのは本当にたまたまで、なんなら別に仏教系の学校でもよかった。母の実家は浄土真宗だし。だから両親がイエス・キリストの生涯についての絵本を私に贈ったことに宗教的な意味合いは何も無い。「クリスマスだから」という理由以外に何も無かっただろう。しかし今考えると、当時小学1、2年生の娘へのクリスマスプレゼントにラッセンの絵本とキリストの絵本を贈るという選択の、なんと素晴らしいことか!私は両親が好きで尊敬しているのでこういったことを惜しみなく言わせてもらう。ところがラッセンの絵本はまだ手元にあるけれど、キリストの方は紛失してしまった。もし叶うならば、あれと全く同じ本を探し出して再び手元に置いておきたい。20年前のクリスマスの記憶が、蘇ることだろう。